「ふるさとづくり2003」掲載
<市町村の部>ふるさとづくり賞 内閣官房長官賞

野外劇による新しい郷土芸能の創出
秋田県 琴丘町
縄文ページェント「琴の湖」

 わが琴丘町は、秋田県の北西部に位置し、八朗湖に面していて、北緯40度ラインにあります。八郎潟の干拓前は、湖の豊かな恵みを受けて、漁業も盛んでした。現在は自然豊かな風土を利用し、主に農業を営んでいます。
 1982年(昭和57年)琴丘町の縄文遺跡から遺物が発見され、秋田県文化課からの依頼で鑑定した、元東京芸術大学教授で文化功労者の作曲家柴田南雄さんが、縄文の土笛であると判定しました。それ以来私たちは、「土笛の里」として、町おこしをしていました。
 1987年、柴田南雄さんの弟子で、作曲家の仙道作三さんが、湖沼ワーストワンの手賀沼の蘇生を願った、オペラ「手賀沼讃歌」で、偶然琴丘町の「縄文の土笛」を、オーケストラの楽器の一つとして使用しました。
 縄文に熱心だった教育長の石井善三さんはオペラのことを知り、琴丘町長工藤長四郎さんと相談、1990年、仙道作三さんに「縄文太鼓」の作曲を委嘱しました。1991年、できてきた太鼓の楽譜は、縄文ページェント「琴の湖」で、とても難しく素人では手に負えず眠らせていました。
 その年の4月、演劇青年だった議会議長を務めた工藤正吉さんが町長となり、縄文ページェントを強力に推し進めました。10月に生涯学習課長となってきた工藤誠さんが、石井教育長さんと縄文ページェントを実現しようと、仙道さんに指導を仰ぐことにしました。
 1992年11月、町では仙道さんを琴丘町文化人に招聘するための準備がおこなわれ、1993年3月、琴丘町文化人招聘条例が議会で承認され、4月、仙道さんを琴丘町招聘文化人第1号として、指導者として迎えました。と同時に、当時38歳であった若輩の私も、縄文ページェントの実行委員長に推され引き受けました。


楽しむ・感動する・創造するをコンセプトに

 琴丘町招聘文化人となった仙道さんは、年間の3分の1は琴丘町に住み、地域をくまなく歩き、気候や風土、民俗芸能や人々の気風にふれ、新しい郷土芸能を創出するため模索に取り掛かりました。縄文を進めてきた教育長石井善三さんが勇退して、役場企画課長だった大山広子さんが教育長となり縄文がバトンタッチされ、さらに強力体制が整いました。
 そして1994年3月、仙道さんは《楽しむ》《感動する》《創造する》をコンセプトとして、これからの地域文化は、受動型から参加型にある、と以前にも増して大掛かりな、町民総参加による「縄文ページェント(野外劇)『琴の湖』」《民俗編》と《現代編》のスコアを完成させました。上演時間が2時間で、出演者が1000名。山のなかの野外でするという壮大な計画に、町の皆が戸惑いました。本当にこんなものできるのか、全員半信半疑で議論百出。実行委員会はいつももめていました。
 しかし町のみんなは乗りかかった船と一致団結して、仙道さんのプランを信用して、実現に向けて実行委員会の役員が町を歩き回りました。実行委員会への勧誘。舞踏で踊ってくれる人。太鼓を叩いてくれる人。合唱で歌ってくれる人。民俗芸能を演じてくれる人。その結果、大勢の参加者が集まりました。また、琴丘町の小・中学生の全員参加と高校生の有志、近隣から能代高校吹奏楽部と二ツ井高校吹奏楽部が、賛助出演してくれることになりました。そして1年間かけての稽古に入りました。
 仙道プランに基づいて、秋田県下から優秀な指導者を招きレッスンを受けました。仙道さんの曲は現代音楽で難しく、デモテープを聴いても分からず、踊りも合唱も太鼓も、みんな合わせるのが大変で、投げ出したくなるほどの思いでした。
 舞台美術プランを見ると、特設ステージは、間口が40m、奥行きが20m、高さが1m20pあり、呆れるほどの巨大なステージで驚きました。衣装と小道具、染物や縫製、土器太鼓の製作まで、美術部員たちが夜を徹して、仕上げました。
 そんな準備をマスコミ各社は全国へ報道して、町民を励ましてくれました。やがて1995年6月、体育館で総合リハーサルをし、7月には2回目の総合リハーサルをしましたが、全体構想がつかめず、本当に上演できるのかどうか、みんなが心配でした。
 8月に入り、候補に上がった見晴らしのいい斜面を利用した山の多目的グランドに、巨大な特設ステージの設営作業に入りました。文化会館大ホールの舞台の約2倍の大きさです。ビル工事のような作業は、町の建設業界がボランティアで造ってくれました。
 1995年(平成7年)8月25日、台風の予兆の夜空で、照明300個、スピーカー10台、巨大なステージを使ってゲネプロが始まりました。演目が進むにつれ、仙道さんの頭だけにしか描かれていなかったステージが、現実のものとなるにしたがい、不安を抱いていた関係者の皆が、だんだんと確信に変わりました。あと30分で終わるゲネプロは、突然の土砂降りの雨で中止されました。
 しかし途中までのリハーサルを観ていた町長はじめ実行委員の主要メンバーは、感動のあまり、プールと化したテントの楽屋で、下半身ずぶ濡れになりながら前祝をしました。


町民芸術の開花

 さて、計画から5年が経ち、待ちに待った本番の日がきました。朝のうちは雨でしたが、昼前には晴れに変わり、決行することにしました。折角のステージは水浸しとなり、パンチカーペットの舞台は水を含み、人海戦術で吸い取り、午後のリハーサルに問に合わせました。本ベル替わりに叩く町長の太鼓で、縄文ページェントは初演を迎えました。出演者より観客が少ないのでは、と心配しましたが、全国から5000名が来てくれました。
 人口6800名の町は開店休業となり、熱演する町民に拍手喝采の連続でした。ところが1時間ほど進んだ時に、危惧していた雨が、またもや降り始めました。出演者も観客も傘もささず、席も立たず、雨雲を恨み、天に願いました。雨雲はその願いを聞き届けるかのように、会場の真上だけがぽっかりと切れ、第6曲の「満月の夜に感謝する縄文人たちの歌と踊り」のプログラムでは、まるで絵に描いたような満月となり、フィナーレ「縄文賛歌」1000名の大合唱曲で、無事に幕を閉じました。それ以来毎年続けられ、今年の8月で、第9回を上演します。
 指導してきた仙道さんは、「実はこの曲はプロがやっても難しい難曲です。難しいと言ってしまうと、誰もやる人がいなくなるからね」と涼しげに言いのけました。そして、「毎年同じものを上演すると飽きる」という意見に、「毎年違う作品は、日替わりメニューと同じ。ベートーヴェンの第九のように、良い曲は何回やっても飽きはこない。一つの作品を練磨してこそ芸術となる」と言い切りました。客観的に観ても仙道さんの言葉通り、毎年出演者の技術は向上しているのが分かります。これぞまさしく総監督の言う「町民芸術の開花」というものでしょう。
 その評価は今年の2月、秋田県芸術選奨受賞となって実証されました。それを励みとして、10回目を目指して、新たに「北緯40度の芸能を訪ねて」の副タイトルをコンセプトに、琴丘町の遠く西の40度ラインにあるマドリードとの関連から、「フラメンコ」をプログラムに加え上演を試みることにしました。
 また、当初から実行委員を務め、縄文ページェントの合唱で歌い、太鼓を叩いてきた工藤喜久男さんが、前任者の流れを継承し新町長となり、生涯学習の一環として、官民一体となった文化振興を、なお一層目指しています。
 現在は、公民館前の多目的グランドに、全国でも珍しい「土舞台」を整備し、より縄文の趣きに合った演出を試みています。