「ふるさとづくり2003」掲載
<集団の部>ふるさとづくり賞 振興奨励賞

田舎での体験実習から得たもの
大阪府茨木市 大阪自然教室
都会の子どもに田舎を味あわせたい

 きっかけは新聞に掲載された「都会の子どもに田舎を味あわせてあげたい」という、兵庫県美方町貫田地区の区長田村利雄さんの投書だった。あれからもう30年が経った。
 1973年、自然保護団体で活動していた20歳前後の若者たちが、自然保護教育のソフトの開発と自然を大切にする子どもたちの育成を掲げて大阪自然教室を設立した。子どもの来ない観察会から出発し、なんとか年会員制度を発足した1974年の夏、貫田地区の農家に泊めていただき、4泊5日の「美方自然教室」を実施した。その後、もっと面白いことをやろうと、1977年から最奥部の熱田地区において小6〜中3が対象の企画を開始し、以来、小2〜小5は「貫田班」、小6〜中3は「熱田班」の二本立てでおこなってきた。
 熱田地区は8軒の集落であり、当時、すでにおじさん・おばさんたちは町の中心の越冬住宅に移住し、通いで農作業や山仕事をされていた。まだ残っていた茅葺きの田淵徳左衛門さん宅をお借りして始まった熱田での集団生活はすさまじいものだった。屋根はあり電気はきているものの、自分だけの空間などはない雑魚寝の寝袋生活。燃料もマキづくりから始まり、自分たちの排泄物のくみ取りまで、何から何まで皆で協力してやらなければならない。小学生高学年はゴマメの存在として大目に見られ、経験を積んだ中学生が先頭に立ち、自然教室から育った高校生がリーダーとしての自覚を持って兄貴・姉貴分として世話を焼き、若い社会人や大学生が全体を切り盛りする、大きな異年齢のごった煮の集団によって生活を創っていった。美方での活動によって大阪自然教室は大きく育てられ、とくに、「熱田」での協働生活が極太の屋台骨を形成した。同じような団体が次々とできては消えていくなかで、ここで育った子どもたちが次々とリーダーとなって活動が引き継がれ、30年経った今でも活動を拡大するエネルギーを維持している。当然のこととして、大阪自然教室のリーダーや子どもたちにとって「美方」はかけがえのない故郷になっていた。


四半世紀続いた活動 ―新たなフィールド求めて―

 「美方は大阪自然教室の故郷」などと言い、おじさん・おばさんたちが農作業や山仕事をされ、生活されている横におじゃまして活動を続けてきたものの、過疎化・高齢化の波は中山間地域である美方にも急速に押し寄せてきた。茅葺きの家も大雪に押しつぶされ、丁寧に耕されていた棚田も次々と放棄され、手入れの行きとどいた山林も荒れてきた。当初は50代・40代だったおじさん・おばさんたちもお年をとられ、亡くなられる方も多くなってきた。漠然とした予感はあったものの、四半世紀を過ぎる頃から「大阪自然教室の故郷」喪失の危機が目の前に迫ってきた。
 数年後にはこれまでのように活動を続けられない状況が確実にやってくることを踏まえ、1998年秋から冬にかけて、新しいフィールドを探して活動拠点を移すか、あくまでも美方にこだわり続けるのか、リーダー会議を度々開いて話し合った。そして出した結論は、「おじさんおばさんたちがこれまでやってきた生産活動を引き継ぎ、故郷である美方を自分たちの手で再生しながら、美方での活動を続けたい」ということであった。
 とはいっても、誰かリーダーが移住して生産活動をすれば問題が解決する、といった単純なことではない。日本の農業のおかれている現状は厳しく、他のリーダーたちが支えるといっても、農業だけで食っていけるほど甘くはない。そこで、1999年2月、役場に対して大阪自然教室の決意を伝えるとともに、長期的な方策として「美方子どもルネッサンス:農水省や文部省の施策を利用し、これまで大阪自然教室がやってきた子どもたちのための体験活動をさらに発展させる事業を興し、過疎化高齢化が急遠に進む美方を子どもたちの元気な声であふれさせ、美方町の活性化に寄与する」を提起とともに、リーダーたちがこれまで以上に積極的に美方に関わっていこうと「美方プロジェクト」を開始した。
 1999年、これまで12泊だった「熱田班」を25泊に拡大して行った。また、すでに借りていた貫田地区の一軒家を修理して、美方の拠点として活用していくことにした。これまで美方の人たちとのつき合いがあるとはいっても貫田地区と熱田地区の、それも地区内の一部の人たちだったので、もっと美方の人たちに大阪自然教室の存在を知ってもらい、自分たちのやりたいことをアピールしていこうと、積極的に地元の祭に参加したりやマチおこしのイベントに協力をしながら、美方の人とのつながりを広げていった。とくに、子どもたちとの関係を重視した。以前にも増して、年間を通して美方町へ出かけて行った。
 2002年5月4日、熱田地区への入り口のバスの終点である、秋岡地区の「稲荷祭」の御輿が7年ぶりに山腹の小代神社まで人力で担ぎ上げられた。御輿の担ぎ手が減り、山道にさしかかると台車に乗せて運んでいたが、2000年から大阪自然教室のリーダーたちが参加するようになってから、祭が活気づいて参加者も増えた結果であった。今年も宮司さんにリーダーたちは「お帰りなさい」と声をかけられ、御輿もまた無事に担ぎ上げられた。
 翌日のイベント「小代渓谷まつり」でもリーダーたちが子ども対象の企画をしたり、出店を手伝うようになってから、年々子どもたちを中心に参加者が広場に滞留する時間が長くなり、中高生には「お祭りが明るくなった」と好評になっている。また、町をあげてのイベントである6月の第2日曜日の「残酷マラソン大会…標高差700m、全長24km」では、毎年14〜15名の高校生や大学生、若い社会人のリーダーたちが、タイムこそ制限いっぱいだけれど、知り合いになった人たちから大きな声援を受けて完走している。走らないリーダーたち10数人もゴールテープの係など大会の運営に毎年協力している。
 以前から畑を借りて野菜は多少作ってはいたが、今後の体験活動のソフトの開発をかね、また、美方での活動で食べる米は自分たちで作ろうと、2001年、貫田地区の放棄田を借りて米作りに本格的に取り組んだ。田植えや稲刈りはもちろんのこと、田起こしから代かき、そして草取りや畦の草刈りと、毎月2回以上は交代で通った。しかし、この年は稲の穂が実り始めた8月中旬から連日イノシシの襲撃にあって全滅し、畑はサルにやられた。


子どもたちとの絆が深まって

 その後、貫田地区で借りていた一軒家は冬の間は使えず、他の家からも離れて交流も少ないので、別の野間谷地区に2002年からもう1軒家を借りて拠点を移し、野間谷地区で再度米作りに挑戦した。集落の人たちが共同で張る電気柵の仲間に入れてもらったので、無事収穫することができた。まだわずかな収量でしかないが、天日で干し脱穀した後で炊いた米は本当に白く輝いていた。年末には、お世話になった近所の人たちを招いて、今では人手がないので美方でも臼で餅つきをすることがなくなっているので、一緒に盛大に餅つきをした。そして、恒例となった年越し・お正月にも数人が残り、あちこちの集落のお家によばれ、都会では味わうことのできないお正月を満喫させてもらった。新しく拠点を移した野間谷地区にもすっかり溶け込め、出会うと「今何人来てるの」と声かけられ、度々新鮮な野菜や潰け物などの差入れもたくさん届く。へっぴり腰で田んぼや畑で農作業するリーダーたちは、何やってるんやと笑われながらも、手を取っていろいろ教えてもらっている。そんな中で、集落で中止になっている盆踊りを復活しようか、とそんな話も出ている。
 子どもたちを対象とした活動にはとくに力を入れて、「美方げんきフェスタ」と銘打ち、文部科学省の「子どもゆめ基金」や民間の助成金をとりながら、年々充実させてきた。まず、美方の子どもたちが一週間共同生活を送りながら学校に通う「通学合宿」も9月と2月におこなってきた。毎回10人前後参加し、参加者が多い現在5年の学年は半数以上がこれまでに参加している。なお、美方町の小学校・中学校はそれぞれ1校しかなく、しかも1学年1クラス(20人前後)である。今年は、すでに5月にもおこない、年3回実施する予定。他にも、「美方プレーパーク」と銘打った遊ぼう会は9月におこない、会場には30人ほどの小学生(全町の15%)や手伝いに中学生7、8人(中学生の10%)や高校生も4、5人が来てくれる。夏体みには、川の自然観察と川遊びを美方の子どもたちに呼びかけ、この時期に「美方自然教室」に参加している大阪の子どもたちと一緒に毎年楽しんでいる。さらに、美方の中学生に対しても、「熱田班」への参加を観光協会を窓口に呼びかけており、毎年1、2人が参加してきた。通学合宿に参加した子どもたちが対象の学年になってきている今年の夏は参加者が増えそうである。他にも、今年は参加体験ワークショップによる異文化体験を韓国・朝鮮文化とインド文化について実施する予定である。徹底的に美方の子どもたちと遊んできた結果、美方にリーダーたちが行くたびに、借りている野間谷の家に美方の子どもたちが遊びに来てくれている。
 これまでの活動を通し、子どもたちはもちろんのこと、大阪自然教室の活動を応援してくれる人の輪は確実に広がってきている。しかし、今後も活動を続けていくことができるかのカギは、常駐者を置ける体制ができるかにかかっているが、残念ながら、現在はそこまでは至っていない。お金のない大阪自然教室としては、マチとムラの交流事業や都会の子どもたちの自然体験事業などを、役場とのパートナーシップによって事業化を目指していきたいと考えている。次のステップとして、協力してくれる美方の人たちとNPO法人を立ち上げ、さらに、「故郷づくり」を続けていく決意である。