「ふるさとづくり2003」掲載
<集団の部>ふるさとづくり賞 主催者賞

かやぶき民家集落の活用促進図る
秋田県峰浜村 手這坂活用研究会

『ここに誰 世々さく桃にかくろひて おくゆかしげに栖るひと村』

 江戸時代後期の文化4年(1807年)に北東北・北海道を中心に旅をした紀行家・菅江真澄翁が、隣村の長の案内で足を伸ばしてみた手這坂(てはいざか)の風景に感嘆して詠んだ一句である。
 そして、谷底に見える桃の満開に埋もれるように建っている茅葺き民家4軒の風景を中国武陵の桃源郷のようだと記録し、写真のない時代、代わりにきれいな絵を残してくれた。
 桃源郷の手這坂は、4軒とも今は珍しい「茅葺き民家」であることからも今も時々地方紙の片隅に紹介されることから地元では知られた場所となっています。


茅葺き集落が無人集落に

 真澄の訪問から約200年がすぎた平成12年の春に手這坂は生活の不便を理由に完全に無人集落となった。茅葺き屋根の家は田舎のばあさんの家というイメージが強く誰からも好かれた手這坂。そのありさまを嘆いてもどうにもならないと諦めていたところ、村の長期計画の策定会議でこれが話題となった。
 手這坂の茅葺き民家をなんとか活用することはできないものか、文化財として保存すべきではないかといった意見が出されたが、財政的理由から村が施策として取り組むこともできずに手這坂の文字は削除された。そこで村が専門家にお願いして簡単な調査を年度末に実施した。民家の現況はどうか、文化財面での価値はあるのか、利用できる可能性はあるのかなどを調べた。13年の3月末のことであった。


生まれ変わった茅葺き民間

 結果は、大きな特徴のある建造物ではないものの、集落全体がまとまって茅葺き屋根という点で極めて珍しく、保存を考えたらどうかという提言が出された。
 このニュースは村内だけでなく茅葺きファンに元気を与えてくれた。早速、民家に住んでみたい方や借り上げの問い合わせが村に来るようになった。
 この反応にびっくりした村では地主さんたちの意向を確認した。「村が中に入って活用するのであれば、家も農地も自由に使ってよい」というお墨付きを得た。
 連休明けからは調査を担当した短大の先生が学生を引き連れて廃屋同然の民家の片づけや、家回りの草刈りなどをボランティア活動で毎週のように実施するようになった。
 雨漏りで腐った畳や床板を運び出し、雑草を刈り、畑に生えた木を伐採した。
 しかし、床下の柱は予想以上にボロボロで、学生たちの力ではどうすることもできない状態であった。このことを地元の大工さんたちに相談したら、快く休日のボランティアで対応してくれた。おまけに材木やコンパネも自腹で提供したのだ。彼らもボランティアは初めてであった。これで火がついたのか、ご親族の方々がお金を負担して屋根の補修を実施してくれた。廃屋同然の茅葺き民家にはその後も古い畳や座布団・机・食器などが運び込まれ、囲炉裏も修復された。今は人が住んでいるかのように生まれ変わった。
 これを契機に再生の気運が高まり、8月には学生や大工、地主さん、村内の有志が集まって民家再生ボランティア団体「手這坂活用研究会」を会員11名で結成した。
 幸い県から支援のお話があり、次の民家の屋根の修復を講習会という形で実施することになった。村内外から多数のボランティアが参加して楽しさのなかで屋根を完成できた。
 秋には翌年の屋根の材料「かや」を確保し、集落のあちこちに桃の木を植えた。ブルーベリーなどの果樹木も植えた。菅江真澄の記録と作業のなかで出されたアイデアで、絵のような風景を再現することと、将来の交流媒体を作ることをねらっての実験であった。


「観光」ではなく「交流」拠点にしよう


 1年目の会の活動は大学生を中心に、手這坂を残そうという心ある方々の協力で終えることができた。会では独自の「活用計画」を策定した。「観光」ではなく「交流」に重点を置いた交流体験拠点にしようということである。再生のために民家を活用したり、交流や農業体験の場として使うことで地域に刺激を与え、活性化に役立てようというものだ。
 会員も増えた。活動していると愛着が出てきた。村は支援する側でよいと言われた。
 また、ボランティアが中心の活動だけに、固定化したメンバーに何か利点があるように、新たなボランティアが参加しやすいようにと2年目の活動に向けて地域通貨(エコマネー)を導入することとした。桃源郷の「桃源」を通貨の名称として、4月から開始した。
 連休前から崩れた廃屋を撤去したり、遊休農地の再生やホタルを増やす活動が活発になった。6月にはNHKの「ひるどき日本列島」で全国に放送された。
 休耕田での田植えも実施した。22aの田んぼには「あきたこまち」が手植えされた。
 茅葺き集落には田んぼが似合うという会員の声がそうさせた。当日は短大の学生が30名ほど応援に駆け付けた。あっという間の田植えの完了であった。
 2年目の活動では地元で大きな変化があった。村内各校がホタルにあるいは茅葺き民家に、菅江真澄に関心を示すようになったのである。中学校では作業にも参加するようになった。
 会の活動では活用が重視されて、民家の活用と畑には麦やそばが蒔かれた。
 再生は3年目に入った。地域通貨が増刷された。1日のボランティアで1000桃源、半日では500桃源の支給がされた。とくに大学生は友だちと「宿泊」したいと奮闘した。大学生ががんばった理由は3000桃源で1人が1泊無料で好きな民家に泊まれるからであった。
 屋根の完成祝いの時の昼食は決まって「だまこもち」で、1000桃源で食べられる。
 7月から9月にかけて民家の修復はピークとなった。屋根と民家内部の同時作業は講習会形式で実施された。作業の合間には田んぼの「かかし」を作ったり、ドラム缶で「炭焼き」などを体験した。とくに昨年は建物の調査を秋田県立大学にお願いしたことから、年間を通して無人集落が賑やかであった。


宿泊も大好評 「不自由だからいいのだ」

 夏にはホタルの観察会を開催したり、首都圏からの森林ボランティア30数名の宿泊も積極的に受け入れた。宿泊は設備が不十分でも都会からの皆さんには大変好評であった。
 不自由だからいいのだそうだが、手這坂から車で20分ほど奥に世界自然遺産白神山地のブナ林があり、それが彼らが好んで参加する原動力になっているようだ。
 渓流釣りの方も活動に期待している。「泊まれるようになるのか」とよく聞かれる。
 泊まれるようにするのが研究会の目標であり、それを活用して元気な村にしたいものだ。
 秋には初めての稲刈りも体験した。トンボが飛び交う田んぼはぬかるみ、裸足で稲を刈った。秋田市からも子どもたちの助っ人が駆け付けてくれた。学生も20人ほど駆け付けてくれた。
 この田んぼの作業は「手這坂日曜農学校」と名付けて1期生5家族が参加した。
 難儀して「完全無農薬低肥料米」を反収3・6俵収穫した。その美味しいこと、今までに食べた「魚沼産」より確実に上だと思った。今年、米づくりは2年目に入った。
 裏手の遊休農地は草を刈ってトラクターを掛けて「菜の花」を蒔いた。でも未だ菜の花の姿を見られない。すべてが順風満帆というわけではない。
 夏にかけて泊まりで使う機会がめっきり増えた。メンバーの活動で使ったり、農協のデイサービスで使ったりと用途はさまざまである。村の会議でも使うようになった。


手這逆桃源郷まつりの開催

 そして、秋。11月4日に手這坂開闢以来の「おまつり」を開催した。名付けて「手這坂桃源郷まつり」である。この2年間の活動に協力してもらった方々への感謝と、手這坂をこよなく愛してくれる方々への「公開」という名目で、午前は民家で「パン作り」と「そば打ち」体験を実施した。もちろん、受講には地域通貨「桃源」が必要である。
 パンもそばも手這坂産のものを使った。とくにパンは白神山地で発見された。「白神こだま酵母」を使った本格的なもので、そばは地元の「石川そば」に指導をお願いした。
 自分で作ったパンやそばを食べられた満足した参加者の顔が印象的であった。
 そして、お昼。手這坂名物「だまこもち」は、1000桃源で食べられるとあって大賑わいであった。桃源がないと食事にありつけないことから、日頃の貢献度がものを言った。
 次に「餅つき」も体験した。メンバーが出店し、手作りのおでんや味噌タンポなどを販売してくれた。こちらは現金と交換となったが、一部の学生が桃源と交換したことから次回に大きなヒントとなった。
 午後は、一番広い民家を使って大衆演芸を上演した。昔はよく集落の民家を使っていろんな催しをやった。高齢の方々にはそんな思い出がいっぱいあるだろうとの企画はズバリ的中した。菅江真澄と手這坂の講話に始まった午後の部は、インド楽器の演奏、猿倉人形芝居、創作太鼓の演奏で締めくくった。無人の集落での「おまつり」は皆さんにどんな夢を提供できたのだろうか。再生活動に理解が深まったのか興味があるところであった。
 冬。雪の多さは里に負けない手這坂を、じっくりと楽しんでもらおうと「冬まつり」の実験をした。雪で作った数百個のミニ灯籠のローソクの灯火は夜の手這坂を別世界に変えた。誰も自宅に戻ろうとしない魅力いっぱいのあるものだったからである。
 昨年1年間のボランティアは約400名。見学者は1000名を超えた。
 研究会の活動はこれからも続けられる。4軒の茅葺き民家とその回りの農地などの再生を続けて、村民も会員も、そして、都市の方々も気軽に利用でき、交流や体験ができる「癒しの里」を目指している。