「ふるさとづくり2002」掲載
<集団の部>ふるさとづくり賞 主催者賞

だれもが楽しめる「街」づくり
青森県下田町 特定非営利活動法人自立支援センターフィフティ
障害者が勝ち取った「車いすにやさしい街」

 1989年9月、身体に障害を持つ人たちと介助者合わせて24人がハワイヘの研修旅行に飛び立った。旅行の目的はCIL(生活自立センター)を訪問し、CILが米国の自立を目指す障害を持つ人たちにどんな支援をしているのか、そして、彼らがどんなふうに暮らしているかについて知ることだった。ハワイで驚いたことは多かった。
 一つは、街が車いすに快適だったことである。段差に立ち往生するということはまずなかったし、トイレで不自由することもなかった。
 CILでは、理事である車いすの男性が、CILの役割や障害を持つ人たちの暮らしぶりについて話してくれた。「車いすにとって歩きやすい街はどんなふうにしてつくられたのか」との私たちの質問に、「この街はわれわれ障害者自身が勝ち取った」と彼は強調した。


自分の住んでいる街を住みやすい街に

 「私たちの街もハワイのようにしていこう」という主旨に旅行参加者の多くが賛同し、「八戸障害者自立の会」を結成した。旅行から戻ってひと月後、89年10月のことだった。障害を持つ人や高齢者が人間らしい生活ができるような社会を築くこと―これが会の目的だった。活動の柱の第一にバリアフリーの街づくりを掲げた。人口24万・八戸の中心街は、車いすで歩けるような街ではなかった。
 私たちは活動の皮切りに、建設中のショッピングセンター(SC)に焦点を当てた。すでにある建築物をバリアフリーに改修することは容易ではない。しかし新築の建物であれば、難しいことではないはずだった。骨組みはほぼでき上がっていたが、他の民間団体と協力して「だれもが楽しく買い物ができるようなSCの建設を」と要望書を提出した。SCの責任者は、快く要望を受け入れてくれた。その後も、改装予定のホテルをはじめ公共的な新築の建物に対しては、同じように要望書を携え個々にお願いして回った。
 一方で、福祉の街づくりのためには「仕組み」をつくることが必要と考え、八戸市や青森県に対して「福祉の街づくり整備指針」を策定することを呼び掛けた。90年9月には、八戸市議会に指針の策定を陳情し、12月議会で採択され、すぐにでも策定のための準備が行われるものと期待した。しかし、市の動きは鈍かった。
 指針策定に拍車を掛けるためには、政治家の応援が必要と考えた。ちょうど91年4月に市会議員選挙が行われ、新人議員9人が当選した。その議員たちに街の実情を知ってもらいたいと、私たちはその年の9月に「新人議員による車いすウォーク」を企画した。車いすで実際に中心街を歩いてみると、机上では見えなかったいろいろなことが見えてきた。歩道に突き出た電柱や看板などが行く手をふさいでいて、歩きにくいのは車いすだけではなかった。百貨店の車いす用トイレの中には荷物が山と積まれ、倉庫と化していた。エレベーターはあったが、車いすでは操作ボタンに手が届かなかった。
 89年に会発足以来、バリアフリーの街づくりのための活動に力を注ぎつつ、一方では、海外への研修旅行、「障害者の自立を考える」シンポジウムなどの開催、自立をしようという人たちのための生活支援など、重層的な活動を展開していった。アメリカの障害を持つ人たちの自立運動の先頭に立っていたマイケル・ウィンターさんや、スウェーデンの車いすマラソンの第一人者だったモニカ・ヴェトロストロムさんを招いてのセミナーなどが印象に残っている。
 その活動の成果として、94年に「青森県福祉のまちづくり環境整備指針」が策定され、後に条例化された。


バリアフリーの大型ショツピングセンター

 94年、国レベルでは「ハートビル法」が策定された。当時、下田町に建設されつつあったイオン下田SCの開設責任者から、「バリアフリーについてアドバイスしてほしい」という依頼があった。まずは当事者たちの話を聞いてほしいと、いろいろな障害を持つ人たちに集まってもらいSCとの懇談会を行った。当事者でなければ分からないということが数多くあった。その中の一つが車いすトイレのことだった。私たちは車いす専用ではなく、車いすでも高齢者でもみんなが使えるトイレを造ってほしいと要望した。
 95年4月、オープンしたSCは予想した以上の設備だった。SC側がバリアフリーに本気で取り組んだということが、感じられる建物だった。車いすトイレは「みんなのトイレ」と命名され、車いすでもお年寄りでも、赤ちゃん連れのお母さんでも使えるということが表示されていた。多分、日本では初めてのトイレだった。床はすべて平面、公衆電話や自動販売機、ウォーター・クーラーなどもすべて車いす対応、併設のボウリング場も障害のある人たちも楽しめるような設備が施されていた。当時としては、全国でも有数のバリアフリーの建物と言ってもよかった。
 私たちは、SCのその姿勢に対して何かの形で報いたかったことと、イオン下田SCを地域でバリアフリーを推進するための起爆剤にしようという狙いから、八戸障害者自立の会として記者会見を行った。「イオン下田SCは、バリアフリーということでは全国に誇れる設備」と、翌朝の新聞で大きく報道された。この記者会見は、会の活動の成果を地域に示すことでもあったが、「イオン下田SCは人にやさしいSC」というイメージづくりにも、大きく役立つことになった。
 イオン下田SCのモールを歩いていると、今や車いすの姿は当たり前になった。近くに米軍基地があるので、目の色や髪の色の違う人も当たり前。10年ほど前にデンマークの大型SCを訪れた時は車いすが多いのに驚いたものだが、全く変わらない光景が広がっている。


NPOと企業との協働の街づくり

 私たちがSC建設のプロセスにかかわったことで、SCと協働で街づくりに取り組んでいこうという基盤が双方につくられていった。
 SC内広場での福祉関連イベントの開催、SCに対する障害を持つ人や高齢者等の声の取り次ぎ、そして97年には、SC内に「福祉なんでも相談室」を開設した。場所と運営費を企業が提供し、NPOが運営するという仕組みだった。
 協働の活動が効を奏し、周辺市町村の福祉施設から団体で買い物に見えるお客様が急速に増えていった。そういうお客様がもっと買い物を楽しんでいただけるようにと、買い物の手伝いや車いすの介助をするガイドヘルパーの派遣も、協働で行うようになった。
 地域のヘルパー資格を持つ女性たちを活用した小さな仕事が生まれた。99年2月、市民団体と企業とが協働で「福祉の街づくり」に取り組み成果を上げたということで、第11回「青森県市町村活性化大賞」を受賞した。同年7月には、SC内に「サポートセンターふぉれすと」を開設、子ども図書の貸し出し、ガイドヘルパーの管理・運営、福祉情報の提供、福祉全般についての相談と支援などを行っている。
 NPO法が制定されたのを受けて、99年12月には私たちの会は法人格を取得し、会の名称も「NPO法人自立支援センターフィフティ」と改めた。
 2000年2月には、ガイドヘルパーの派遣などバリアフリーのソフト面での取り組みが評価され、「青森県福祉のまちづくり適合施設」第1号に選ばれている。


大型SCの機能を生かしたデイサービス

 SCは今や「小さな街」、しかも、安心・安全で全天候型の街である。ショッピングのみならず、レストランや喫茶店、美容院や歯科クリニック、ゲームセンター・映画館・ボウリング場などなど、街の機能を備えている。そんなバリアフリーの街の中に福祉施設があったら、お年寄りや障害を持つ人たちが施設を利用しながら安心して買い物や散策を楽しむことができる。これからの福祉施設はいろいろなタイプのものがあってもいい。
 そんな夢をぜひ形にしてみたいと、デイサービスセンターを開設することになった。2001年5月から、介護保険指定のデイサービスセンターとしてスタートした。定員15名の小さな施設だが、私たちはSCまるごとデイサービスセンターと考えている。300m近いモールを散歩するだけで、機能訓練になる。買い物しながらいろいろな人や物と出会うことが、いい意味での緊張感を高齢者にもたらす。
 「SCの機能を生かしたデイサービスセンター」は、SCの理解と協力なしでは実現しなかったし、逆に「人にやさしいショッピングセンター」も私たちのアイデアと応援なしではあり得なかったと自負している。何よりも両者がパートナーシップを組んで事業を展開することによって、障害を持つ人や高齢者が「街」を歩けるようになった。そのことが他の周辺の街にも確実に広がっている。NPOと企業との連携は、行き詰まった地域社会の中で注目されるテーマとなっている。私たちNPOとSCとの7年間に及ぶ取り組みは、新しいふるさとづくりの一つの例として提示できるのかもしれない。