「ふるさとづくり2001」掲載
<集団の部>ふるさとづくり大賞 内閣総理大臣賞

アドプト・プログラムを導入した環境改善活動
徳島県神山町 アドプト・ア・ハイウェイ神山会議
 「あれっ? 変わった看板が立っているなあ!」1989年6月のことである。サンフランシスコ郊外、前年には見かけることのなかった看板がフリーウェイに姿を現した。『散乱ゴミ清掃―これより2マイルの区間』という文言の下に、『キワニクラブ』という団体名があり、『ADOPT A HIGHWAY』と表記されていた。「ははぁ、ハイウェイの清掃活動を民間ボランティアが担っているってわけだ。面白そうな方法だな、いつか日本でも使えるぞ!」


ソフトの向こうにハードが見える

 徳島県神山町は徳島市中心部から車で約40分、人口8700の過疎化の進む山あいの町である。江戸末期から明治にかけて阿波人形浄瑠璃が盛んだった。その舞台を飾ったふすま絵が今も1500枚余り残っており、当時の盛況ぶりをしのばせる。
 1997年、徳島県が神山町を含む中山間地区で『国際文化村』を作るという構想が持ち上がった。「今まで国や県が打ち出したプロジェクトは、お決まりの定食メニュー。内容も似たり寄ったりで、住民の意志や思いが反映されていない場合がほとんど。それではどうすればいいのか? 地域住民が構想を練り上げ、オーダーメイドの『国際文化村』はこうだ! と県に提案してみよう!」それまで町内の有志で組織していた『神山町国際交流協会』が『国際文化村委員会』を設置し、計画は具体的に動き始めた。委員会でまずコンセンサスを図ったのは、1.『国際文化村』という新しい視点での町づくり、2.ハードよりソフトを! という2点だった。ソフトを積み重ねていくうちにハードは自然と見えてくるだろうとの発想である。「自分たちの『国際文化村』を創ろう!」


できない理由より、できる方法を

 ところが、こんな時決まって姿を現すのがアイデア・キラー。今までこの町で起こった失敗例を分析し、『できなかった理由』を羅列する。事実、経験に基づく話ほど説得力を持つものはない。「やはり自分たちでは無理なのか?」白熱化し始めていた議論が止み、意欲が一気に萎んでいくのがわかる。「このままではまた自滅…」。そこで、落胆気味の委員にこう問いかけた。「今までの経験から『できない理由』の理論づけをすることは簡単だし、論理的で、時に理知的にさえみえる。しかし、ちょっと見方を変えて『できる方法』を考えてはどうだろう! そして、できるところから始めてみよう(Just Do It)」。時として言葉は偉大な力を発揮する。魔法にでもかかったかのように委員の気持ちは以前にも増して前向きになり、物事をあまり難しく考えすぎない空気が醸成されていった。1.できない理由より、できる方法を! 2.Just Do It! この2つは『国際文化村委員会』がプロジェクトを進めるうえでのキーワードとなっている。


日本初のアドプト・ア・ハイウェイ

 具体的な展開を考えるにあたって、『国際文化村』イメージをどう捉えるかということになった。「環境と芸術をキーワードに!」、「日常として芸術家の創作活動が見える町」、「五感にアピールする町」、「文化と名のつく町のあちらこちらにゴミが散乱というのじゃあ、文化村失格だ」、「日本初を目指そう」、「散乱ゴミは文化の対極」等々。議論百出。様々なイメージが示される中、戦略プロジェクトとして『芸術家村構想』と『アドプト・ア・ハイウェイ』が選ばれた。神山町を『クリーンでグリーンな芸術家村』に仕立てようというのである。
 アドプト・プログラムは、1985年にアメリカのテキサス州道路局が高速道路の周辺のゴミ清掃を沿道住民に依頼した『アドプト・ア・ハイウェイ』が起源で、現在では全米に浸透している。アドプト(adopt)とは、養子にするという意味で、国や地方公共団体が建設した道路や公園、また、それらが管理してきた河川や海岸を、地域住民が養子として維持していこうという仕掛けである。ところが、こんな興味深い活動が日本ではいまだ取り組まれていない。「このプログラムを全国に先駆けて実践することによって社会にインパクトを与え、『パブロフの犬』のごとくアドプトと聞けば神山町を連想するようなイメージ戦略を展開しよう!」そこで、まず徳島県に導入を提案することになった。


行政の壁

 「道路美化への民間の協力は非常にありがたいが、スポンサー名の入った標識となると商活動での利用を禁じた道路法との兼ね合いもあり、難しい」(道路保全課)。1997年12月、この前例のない取り組みの提案に対して行政の壁は厚かった。このプログラムの中核とも言える名前入り看板の設置ができない。法の柔軟な運用を要望するが、『できない理由』が次々と述べられる。それなら、道路脇の私有地に立てるのはかまわないのではないかと代案を提示しても、県広告条例に適合するかどうか検討が必要という返答。しかし、その後いくら待っても検討結果の連絡がない。
 「いつまで待っても埒があかない」1998年6月28日、神山町国際交流協会を含む4団体(合計8キロメートル)は、私有地(?)に看板を出す方法で第1回の活動に踏み切った。「本来法律は世の中を良くするためにあるはず、正しいかどうかの判断は世に問う」強行突破であった。不安に満ちた出発ではあったが、メディア等で報道されるにしたがい企業や町外の団体も参加、順調に拡大していった。1999年3月には9団体20キロメートルとなった。
 ところがこの期に及んでも、活動に対する県の反応は単に、「道路をきれいにしてくれてありがとう」と極めて冷淡なものであった(たぶん法律との狭間で対応に苦慮し、有効な手立てが打てなかったのだと思う)。しかし、道路管理者がそっぽを向いたままでは、県内はおろか全国への展開などとうてい望めない。そこで、かねて仕掛けておいた時限爆弾の活用となった。実は、当初立てた7基の看板のうち、3基は(意図的に)私有地ではなく道路区域に立てられており、その事実を新聞記者にリークしたのである。
 「道路区域内困ります・県が近く移設要請」記事は社会面のトップを飾った。同じ頃徳島県では、吉野川交流推進会議の手による『アドプト・プログラム吉野川』が産声を上げようとしていた。「吉野川を分担清掃・企業名看板立て責任促す」の報道通り、河川区域内にスポンサーの名前入り看板を立てるという。「なぜ吉野川で許されて、神山の道路ではダメなのか!」新たな議論が巻き起こった。そこで県との間で『できる方法』を探る真剣な議論が交わされた。前向きな協議の結果、営利目的の看板ではないとの理由で、道路区域内においても他の支障にならない限り占用を許可するとの判断が示された。1999年10月1日。この日『徳島県OURロードアドプト事業』が県の正式な事業としてスタートを切ったのである。


広がる活動と限りない可能性

 コロンブスが卵を立てたように、困難そうに見えても最初手掛けた者が問題を解決しておけば、後に続く者は同じことに労力を費やすことなく新しい展開を模索することができる。
 アドプト・プログラムが徳島の小さな田舎町で始まって2年余り、活動は着実な前進を遂げている。県内では、神山町、吉野川、那賀川町、三好町で導入され、80数企業・団体の合計9400人を超えるボランティアが90キロメートルに及ぶ道路や河川敷を定期的に清掃し、効果を上げている。
 また、活動が全国に知れわたるにつれ、散乱ゴミ問題で頭を悩ませる自治体から問い合わせや視察も殺到している。このような中、広島県、福岡市、大阪市、善通寺市等では活動がすでに始まり、多数の都道府県や市町村によって導入が検討されている。今後、アドプト・プログラムは、道路や河川だけでなく、海岸や公園、公共施設の管理・運営にまで広がっていく大きな可能性を秘めている。瞬く間に全国津々浦々にまで伝播するに違いない。
 また、活動を影に日向に支援してくれる行政の役割も見逃せない。徳島県が先頭に立って国に対して施策提案という形で導入を積極的に働きかけるとともに、全国に向けて情報発信の展開のひとつとして、今年8月『第1回アドプト・プログラム全国大会』を開催するのである。このように、いろいろな場面でアドプト・プログラムと出会うことは、住民と企業と行政が、共通の目的に向かってともに手を取り合って進んでいく社会を創ることにつながっているのである。


パートナーシップ

 活動にはいろいろなエピソードがある。例えば、看板の問題で対峙していた県の担当者は、県の正式事業としてスタートするや否や地元の那賀川町でボランティア団体に働きかけ県内3例目のプログラムを立ち上げてくれた。「役所の人間は頭が固い」と思いがちな私たちの胸を熱くしたものてある。
 また、町内の校長先生の1人からいい話を聞いた。ある夕方、学校の近くの用水路に6年生の男の子が入っていた。ひょっとして落ちてケガでもしたのでは?「どうした? 心配ないか?」と尋ねると、「校長先生。昨夜、父母が『アドプトして本当に気持ちよかったなあ』とニコニコして話し合っていました。僕はゴミを拾うと本当にそんな気持ちになれるのか知りたくてゴミを拾っています」
 散乱ゴミが町から消えるという目に見える成果もさることながら、この活動に参加してみようとするそれぞれの気持ち、自然とのやさしい触れ合い、そして人々との交流。この活動が想像した以上に膨らんでいくことも何よりの喜びとなっている。


『国際文化村』見つけたり!

 始めてまだ3年余しか経たない活動ではあるが、民間主導で行政が裏支えをするスタイルによって自分たちの『国際文化村』が姿を現しつつある。環境問題にスポットを当てたこの『アドプト・ア・ハイウェイ』。少子化にともなう学校の空き教室をアトリエに国内外の芸術家が創作活動を行う『神山アーティスト・イン・レジデンス』。休校校舎を活用し武蔵野美術大学との連携でワークショップを開催する『神山アート』。野外で常時芸術作品に触れる場を提供する『ポスターギャラリー神山』。……われらが『国際文化村』は着実に形を整え始めている。
 こうして住民と行政がひとつとなり、また日本人ばかりでなく外国人もともに手を取り合って築き上げていく、このプロセス自体が真の「国際文化村」なのかもしれない。