「ふるさとづくり2000」掲載
<個人の部>ふるさとづくり奨励賞 主催者賞

次世代のために山とともに生きる
徳島県神山町 山田 勲
 山田勲氏は、昭和24年6月9日、徳島県神山町上分字中津に生まれる。同氏の生まれた神山町は四国山脈の東部に位置し、全面積の83%が山地で、東は県庁所在地の徳島市に、西は四国第2の高峰・剣山を擁する木屋平村に隣接する清流・鮎喰川に沿って集落が点在している山間の町である。
 昭和30年に5ヵ村が合併し、現在の神山町が誕生。当時、1万人いた人口も、過疎化の進展により、現在では8,000人強となり、65歳以上の高齢者が35%を占め、過疎化・高齢化に悩んでいる。とくに、同氏の住む「神山町上分地区」は、同町の西の端、1番奥に位置し、町内でも過疎化の進展が著しい地区である。


自費を投じてキャンプ場開設

 同氏は、高校卒業後、20歳に神山へ帰り、当初、家業の農林業に従事。当時、山では雑木を伐採し、杉の植林が盛んに行われていた。同氏は、剣山山系に自生していた「シャクナゲ」が全滅することを恐れ、観光とは無縁であった当町において、数人の共同所有地であった山林の1部を譲り受け、石を掘り起こし、シャクナゲの移植をおこない、「シャクナゲの里・岳人の森キャンプ場」を開設し、昭和51年開業した。
 当時、まだ「村おこし」という言葉が、あまりささやかれていない時期、同氏は、同級生、友人等が次々と町へ出て行く中において、「行政が動くのをじっと待っていられない。ふるさとづくりは、自分ができることから」「いくら過疎が進行しても、心まで過疎になりたくない」「可憐な山野草を守り、その素晴らしさを他の人にも知って欲しい」と、小資本で開業が可能な「花の里・キャンプ場」を開設したのである。花の里づくりで、家計を圧迫しないように、農林業で蓄えた資金で、自ら、山の頂上近くの水源から水を引き、下草を刈って、道路をつけ、文字通り、補助金に頼らない手作りの「花の里・キャンプ場」をオープンさせたのである。
 とくに、シャクナゲの保護育成には、試行錯誤の結果、茎の1本1本に虫がつかないよう注射器で予防し、草刈り、シーズン終了後の花の摘み取り等、丹精を込め育成している。また、同キャンプ場に自生している山野草の保護につとめるとともに、夏椿、ヒメシャガ等の育成を行い、訪れる人びとに自然の素晴らしさ、大切さを教えている。
 その後、昭和60年に「剣山スーパー林道」が開通したのを機に、同年、国道193号線沿いのキャンプ場入口に、スーパー林道の案内施設兼飲食施設をオープンし、オフロードバイクに乗って日本全国から訪れる人びとや、紅葉・山岳観光に訪れる人びとに対し、スーパー林道の案内人、人生の相談者として貴重な存在となっている。


高山植物の観察会を開催

 昭和61年には、同キャンプ場を訪れる人びとの要請により、同氏が、保護育成に努めた「シャクナゲ園」を広く一般に開放し、その名も「シャクナゲ祭り」として、5月のゴールデンウィークには、徳島県下だけでなく、広く四国4県・中国地方等からも、多い時は期間中に約5,000人の人びとが訪れるイベントに成長した。
 また、同氏は剣山スーパー林道の自然に造詣が深く、自然を愛する人を1人でもつくろうと各種高山植物の観察会を開催し、現在では、春の「カタクリの花観察会」、夏の「南国クガイ草観察会」、秋の「トリカブト観察会」と恒例化し、毎年心待ちにしている多数の人びとが生まれた。
 同氏の口癖に「過疎の山村は、人の往来があるだけで活性化につながる。往来があれば、山村にも活力が生まれ、意欲がわき、活性化がはじまる。1人になったら、ここには住めない」があるが、彼は「村おこし」という言葉もない時から、それを自ら実践し、開発優先が叫ばれていた頃から、自然との共生を夢見て、奥さんとの二人三脚で「岳人の森」という舞台で、1つ1つ着実に具体化していっている。


応援団も現れた

 その後、同氏の実績に感動し、同氏の人間的魅力にひかれ、同氏を応援しようという人びとが現れた。一例として、高地のため電気の通っていない同施設に対し、地元住民・町・電気工事業者等が動き、ついには、電力会社を動かし、平成4年、2,500メートルの間に電柱がひかれ、同所に待望の電気が灯るようになった。また、同施設最大のイベント「シャクナゲ祭り」には、地元郵便局、生活改善グループ、地元企業等が出店し、今では地域と一体となった、なくてはならないイベントになっている。


各種団体の設立にも尽力

 一方、同氏は神山町観光協会の設立に深く関わり、昭和62年設立以来、現在に至るまで、神山町観光協会の副会長として、本町の観光振興に多大なる貢献を果たしている。とくに、同氏の「自然を生かした、地域に根付いた観光」という理念は、観光協会の提唱による「阿川梅の里・梅祭り」の実施に至っている。これは、本町を代表するイベントに成長している。また、同時に、日本の滝100選に本町の「雨乞いの滝」が、四国の自然百選に「鮎喰川」が選ばれるなど、その影には、同氏の存在が非常に大きい。
 また、神山町商工会青年部の設立にも関与し、昭和58年・初代副会長に就任され、当時、同部の地域振興部長も兼務し、昭和59年以来、現在に至るまで続いている当時では珍しい、ボランティア活動と自然の中での遊びを融合したイベント「鮎喰川クリーン作戦」をスタートさせた。同イベントは、鮎喰川河原の清掃作業を行った後、美しくなった川で遊び、1日自然に触れることを目的に実施しているものであり、毎年、地元神山町だけでなく、近隣町村から多数の家族連れが訪れ、清掃作業に汗を流している。
 同氏は、その他、県の自然保護監視委員・地元小学校PTA会長・民生委員・地元体育協会支部長等も歴任し、地域に深く関わっている。


岳人の森を心のオアシスに

 同氏の存在が本町に観光(交流)を芽生えさせ、観光協会をつくり、過疎に悩む本町の活性化の切り札として、自然を生かした観光を興させたのである。都会へ都会へと人びとが出て行く中で、神山町の、それも1番奥深い地区で、誰にも頼らず、信念をまげず、自力で、自分の住む町を誇りに思い、子・孫の代まで町を残そうとして、自然との共生を目的に、花の里を興し、ついには、地元民・行政等を動かした同氏の足跡は大きい。
 同氏は「岳人の森」が、そこを訪れる人の「心のオアシス」になれたらと思っている。仕事で疲れ、人生に悩み、人間関係に疲れを覚えた時、岳人の森に来て語らい、自然に触れ、心を癒して帰っていく。そんなところを「岳人の森」はめざしている。山野草を通じ、1人でも多くの人に自然の素晴らしさ、大切さを知ってもらいたく、自然と人間との共生の道を、自ら夫婦二人三脚で歩んでいる。次の代のために。