「ふるさとづくり'01」掲載 |
<集団の部>ふるさとづくり賞 主催者賞 |
日本の原風景を忘れないために |
福島県岩代町 プロバンスクラブ |
はじめに <設立動機> 1990年、同地に菅野伝授美術館が誕生した。50年前まで日本に存在していた家族の風景(在り方)、人々が抱く自然への畏怖を描いた1人の画家の作品のみを展示した、小さな美術館である。入館者は決して多くはないが、作品のモチーフと美術館周辺の日本の山村の原風景に魅せられて幾度となく来館する人が増えている。 <名称> 1991年、製林所を持つ大工の棟梁・セザンヌのセントヴィクトール山に似た近くの山岳・豊かな広葉樹林・泉・陽気な農民たち・多彩な物語を紡ぎ出す伝承芸能の数々、この過疎地域に魅力を感じた人々の誰からともなく、この景観と人、自然との関わりを大切に守って行く運動を起こそうという話しが持ち上がった。 絵に関心のある人々、南仏プロバンスにハーブの研修に出向いたことのある人などの提案から「プロバンスクラブ」と名づけられた。 <会員> 目的に賛同する人々の自由入会とした。 美術館のオープンがNHK東北・関東甲信越エリアで放映されたので、会員は広範囲に渡った。 <会則等> 細かい会則なしで進めたが、信条(哲学)として (1)自分たちのできる力でやること。ゆえに行政からの財政的フォローは受けない。 (2)会員がどんなことをやりたいかを積極的に提案すること。 <話し合い> 初期の会合で話し合われたことは(1)丘陵地の遊休桑園を整備してヒマワリの花を咲かせたい。 (2)宿泊設備を造って首都圏の人々と交流をやりたい。 (3)休耕田を借りて湿地や池をつくり、ホタルを呼びたい。 (4)伝承芸能を現場で観たい。 (5)炭焼きの体験をしたい。 (6)年1回夏休みを利用したイベントをやりたい。 等、会員たちの想いは膨らんでいった。 <活動の経過> 1992年 菅野伝授美術館オープン…NHK放映。 1993年 プロバンスクラブ誕生。 1994年 ヒマワリの丘出現…NHK福島放映。 1994年 宿泊交流施設立ち上げ。 1994年 休耕田を借りる。 1995年 森のコンサートの実施。 宿泊施設を「バンドリ学校」(新村トシ学校長)と命名…NHK福島放映。 炭焼き窯を作る。 「屋根のない博物館報」発行。 1996年 伝承芸能の現場を観る体験の実施。 1997年 森のコンサートステージ改築。 1998年 町に童謡唱歌を歌う会誕生。 1999年 トークサロン木もれびが開設、木もれびトークを開く。 2000年 村の鍛冶屋オープン。 2000年 行政が自然美術館の町づくりを表明。 2001年 野焼き体験。 ヒマワリ畑のこと(1994年) ここ岩代町は県内有数の養蚕地帯であり、1950年代から森をつぶして桑園造成が行われた。90年代に入って養蚕の衰退が始まり造成地の大半は荒れ、町内に1000ヘクタールに及んだ。94年3月、丘陵の連なる荒れた畑を借地し、整地を始め、5月に待望の種を蒔いた。8月、輝く太陽のもとヒマワリの花が咲き始めた。種蒔きから携わったプロバンスの会員たちや地域の人々は、丘のヒマワリをバックに安達太良連峰が眺望できる景観の出現に驚いた。 宿泊施設の立ち上げ 村のあちこちに点在する使われなくなった養蚕小屋。割と大型の空き家を借りることができた。鍋、釜、寝具は除々に集めようと決めた初年度、10名程度が暮らせる什器、ふとん等が持ちこまれた。2000年現在30名の宿泊が可能になった。豊富な薪を集める子どもたちに火の扱いなどを教えた。宿泊が始まるとご近所から新鮮な野菜が届けられ、採れたての味は都会人をびっくりさせた。「何、これー、これが野菜の味なの」というほど本当の味を味わったようだ。 森のコンサート実施(1995年) バンドリに宿泊する人には何故か音楽愛好家が多く、昼は野山を駆け回り畑仕事を手伝い、手持ちの楽器で小さな演奏会が開かれるようになっていった。 地域の人を巻き込んだ音楽会ができないのかという話が出たが、コンサートホールや文化センターのない町なので、イベントの開催には頭を悩ませた。あるときいつも野菜を届けてくれる近所のおばあちゃんから耳よりな話しを聞いた。昔の村祭りの話しであった。 昔、旅巡りの役者たちを呼びとめては土手に腰掛け、重箱をつつきながら1日ゆっくり野外芝居を堪能したというのである。すぐに、森の中でコンサートは開けないかとひらめき、付近の森を捜し歩いた。ポイントは客席が円形場に近い場所の設定である。 古材を集めてステージを作った。軽トラックに積まれたピアノが運び込まれたときの会員たちの感動。 2年目からはNHK交響楽団フルート首席奏者の中野富雄さんが出演してくれた。3年目からは森のコンサート出演希望者が増大した。森のコンサートは今年7年目を迎える。 ばんどり学校 宿泊施設の周りはけやき、杉などの巨木が立ち、野生動物のむささび、ふくろう、ハクビシンなどが動き回っている。むささびの地方名をばんどりというので、この施設の名前をばんどり小屋と名づけ、地方の古老たちの尊い経験を伝授してもらう場として「ばんどり学校」と命名したのである。 炭窯づくり 都会から来た子どもたちは1日中火を燃やしている。火を燃やしていると目がキラキラしているのだ。そして大人たちは炭焼きをしたいという。地域の人にとっても窯つくりの技術は経験の多い古老たちの元気なうちにという想いも重なり、さっそく古老の指導のもと、とうとう踏み切ったのである。1週間にわたった作業に使う道具は手づくりが原則である。現代の工業社会の中では稀有の作業であり、忘れがたい思い出となった。 屋根のない博物館「ムッキョジ博物館報」第1号発行 地域全体を博物館とみなし、歴史・民族・自然を直視し、今までに失った大切なものを考えようということになり、アピールする刊行物発行に至った。従来の箱物の博物館から脱却を目指す内容の編集方針が決まった。 伝承芸能を現場で観る会 伝承芸能は何故連綿と続いているのか。この疑問が最初にあった。祭りがあり、神に奉納するたびにその継承するための困難性をみるとき、先の疑問が生じるのである。 技、練習の実際を現場で観るしかないと、有志を募った。近年文化ホールなどでしばしば催されるが、これは亜流。原点に戻って観ることに大きな意義があった。 阿武隈高地の奥深くに伝わる「田沢熊野の元旦の舞」「日山の三匹獅子」「小浜諏訪神社の三匹獅子舞」を見学した。 森のコンサートステージ改築(1997年) この年、はじめてF社より企業メセナの申し入れがあり、鉄道枕木の寄贈があった。実行委員会で設計し、ブナの木の真下に新しいステージが出来あがり、集客数を1000人規模に整備した。 童謡唱歌を歌う会結成(1998年) 山・川・野・四季・人が素朴にそのまま残る山村と唱歌を融合させることは出来ないかという話し合いから、歌う会が結成される。町内在住の元教師の指導で月2回、日本の美しいことばと旋律に浸っている。現在の会員70名。各地へ出張ボランティアなどで歌っている。 木もれびトーク(1999年) 商店がシャッターを降ろしてしまう中、1店舗を借りて1階を地場工芸品販売、不要品の寄付籠、2階はアートギャラリーに改装、人の集まる場所にした。月に1度トークの日を開いて、時事、宗数、科学、民族などを話し合う場とした。オーナーは吉田市良さん。 村の鍛冶屋のオープン(2000年) 郡山市の鍛冶屋をやっていた人が廃業したので、その道具を譲り受け、資料館と体験工房を造ることとなった。町に1人残っていた昔の鍛冶職人の指導を受け、基礎的な技を伝承したい。目下、中学校の総合学習に取り入れるべく協議中。 自然美術館の町づくり(2000年) 行政サイドの町の長期計画「自然美術館の町」づくりが正式に取り上げられた。 10年間の活動を顧みて 最初、プロバンスという名称が地域に馴染まなかった思う。地域の人々の戸惑いの中にも交流が始まってみると、ヒマワリ畑が突然出現したり、養蚕小屋に都会から大勢の人が集まるという変化のある生活が始まった。休耕田は池になり、小魚が泳ぎ出す風景をみると、昔の経験がよみがえり、話し合いが深まっていった。特に炭窯つくりは古老たちの魂を揺さぶり、芸術作品ともいえるものができ、参加した多くの人々の連帯感を深めた。 連帯感という面では、ブナの森の音楽会を介しての実行委員会の発足に取り組んだが、企画の段落でこれほどの盛り上がりを予想し得なかったこと。2年目、3年目になると出演したい(森での演奏を望む人)と数多くの団体から申し込みがあった。また、出演ではなく、実行委員の姿に感動した地域の中・高生が、自分も実行委員に入って取り組みたいと申し出るなど、ボランティア精神が根付いてきた。この取り組みは緩やかに町の童謡唱歌を歌う会へとつながったと思われる。また、自然美術館の町づくりへの構想の土台となっていった。 宿泊施設の運営については、食事の提供を望む声が出始めているが、確かに地域の食材を伝統の調理法で供する農村レストランの整備を図ることも考えたが、保健所の許可などの規制もあり、目下のところは宿泊施設の提供のみで、食事は畑から農産物を収穫する体験から、自ら伝承料理を作ることが大切というポリシーを大切にすることとしている。 このようなプロバンスクラブの数々のアイデアは、お金のない中からいかに発想を豊かにして実行に移すか、この面白さに気づいた人々が考えたことである。豊富な資金源があればこのような活動は浮かばなかったと思える。文化センターや音楽ホールがあれば森のコンサートは生まれなかった。土地の賃貸についても地域との信頼関係を築くためには、急がずに徐々に培ったことが良かったと思う。 10年を振り返っての効果を紙面に著すことは難しい。菅野伝授の作風に出会い、彼の作品を生んだこの土地に魅せられた最初の感動がクラブ員の中に消されることなく焼き付いていた。自然の一つ一つが地域の人1人1人が我々の教師だということをここに訪れた人が感じてくれたことが一番の成果であったと思いたい。 |