「ふるさとづくり'01」掲載
<集団の部>ふるさとづくり賞 内閣総理大臣賞

“えりも砂漠”を緑豊な大地に
北海道えりも町 えりも岬の緑を守る会
 北海道えりも岬の東側沿岸に沿って約10キロメートルにわたって広がる緑の海岸林は、荒廃し瀕死の状態にあった自然を、地元えりも岬の住民と日高南部森林管理署浦河事務所が半世紀近い年月をかけて復興させた森林である。


えりも岬がえりも砂漠に

 えりも岬地方は、寛文年間(1660年代)から内地人の住みついた所で、当時アイヌ民族も居住していたと言われ、カシワやハンノキ、ヤナギ等を主体とする広葉樹の原生林に覆われていた。
 明治年間に入り内地人の急激な増加により生活のための燃料確保や、獣の害を防ぐための伐採、燃料不足による伐根の採掘も行われ林地は荒廃した。
 さらに、牛馬や羊の過放牧が行われ、これに加えてイナゴの大群が飛来して地床植物の大部分を食いつくしたことがさらに荒廃を加速した。裸地となった黒色の表土は、全国でも有数のえりも岬特有の強風で風食され、その下層の赤褐色の火山灰砂が飛散するようになった。
 えりも岬地域の大部分の人たちは水産業によって生計を維持していたが、禿山が増し、表層の土砂が流出、飛砂が激しくなったため、沿岸の海水は土砂で汚れ、魚類の生息、回遊も減少し、昆布などの海藻類は根腐れを起こし、これらの水揚げ高は激減した。また、人々の日常生活は、赤い飛砂のため飲料水は濁り、閉めきった家のタンスの中の衣類にまで泥まみれになったほどで、健康や衛生面など生活環境が極めて悪化し、地域住民の集団移転まで話題になった。
 豊かな緑の森だったえりも岬は、赤土の禿山が連なる「えりも砂漠」の様相を呈していた昭和28年、日高南部森林管理署浦河事務所(当時浦河営林署)に「えりも治山事業所」を開設して本格的なえりも岬緑化の第一歩を踏み出したが、それは苛酷な自然との長い苦闘の始まりでもあった。


網をくわに持ち替え緑化に取り組む

 緑化事業は、禿山に草を根づかせる「草本緑化」から木を植える「木本緑化」へと順を追って進められた。まず、草本緑化は在来工法を採用して、よしず等を使用して飛砂の防止と種子及び肥料の飛散の防止を目的とした「覆砂工」を実施した。「覆砂工」の作業は、海に魚を戻し、生活を改善するために漁師が作業に加わり、「木を植えると魚が来る。」と信じて網のかわりにくわをもった。しかし、岬特有の強風雨によって、作っては壊れ、直しては壊れるという繰り返しで、被覆材料の入手が難しくなるなどの苦労が続いた。また、根付いた草も冬の表土の凍結で枯れてしまい、同じ場所を何度もやり直すということが続いた。作業する住民も思うように進まぬ状況に苛立ちが目立つようになり、事業実施に批判する人も出てきて、施行には困難を極めた。
 昭和32年から、被覆材料に海のしけによって海浜に打ち上げられた雑海藻類を利用した。「雑海藻は、畑の肥料として使用していた」という漁師の話がヒントとなり雑海藻類を使用したところ、緑化費用が在来工法に比べ約4分の1程度で済み、しかも施行は土が見えない程度に覆うだけという簡単なことから大面積の草本化が可能となり、草本緑化事業の飛躍的な成功をもたらし、今日のえりも治山事業の基礎が確立された。この工法は「えりも式緑化工法」と呼ばれている。海草のぬめりなどで乾燥と風を防いだ草の芽は色も違って見え、草本緑化事業の成功により、地域住民も「これでいける!」と誰もが思った。
 木本緑化は、草本緑化が完了した土地にクロマツを主体に植栽を実施してきたが、樹種の適地調査、植栽方法、防風垣の密度や設置方法、保育関係など未解明の部分が多い中で実施したことが主な原因で成績はあまり良くなかったが、昭和41年に防風効果の追跡調査を行った結果、他方での在来工法の防風垣の設置が岬に通用しないことが判明し、それ以降植栽木は、活着、成長とも良好な成績を示している。
 草本緑化の約80%を終えた昭和40年頃から飛砂と土砂の流出が減少し、草本緑化をほぼ終えた昭和45年頃からは、魚介類の水揚げ高は急速に伸び、現在は北海道内有数の漁場となり、沿岸漁業のサケ・マス等回遊魚の水揚げ高は日高地方のトップとなっている。また、海水の汚濁がなくなったことや水温が安定したことにより、昆布の品質が良くなると同時に採取できる区域が増大し、かつて「えりも砂漠」と呼ばれていたえりも岬のイメージは全くないと言っていいほどの活気をみせている。


関係団体が一致協力し「えりも岬の緑を守る会」結成

 森林が復元するにつれて、海もまた生き返り、岬に魚が戻り、地元の基幹産業である水産業の漁獲高は年々増加するとともに、住民の安定化を促進し地域の活性化をもたらし、社会生活が再興された。
 また、緑の樹海と紺碧の大海原との素晴らしいコントラストが新しい観光資源になっている。
 昭和58年に緑化事業の30周年を記念して、これまで、各々の立場から緑化事業に協力してきた地元住民や関係団体が、一致協力し、緑化事業を促進することを目的に「えりも岬の緑を守る会」を結成し、今日に至るまで緑化事業の推進に協力しているところである。えりも岬緑化の歩みは、長年にわたる「えりも岬の緑を守る会」を構成する地元住民と森林管理署浦河事務所との一致協力した体制と様々な研究や創意工夫の歴史とも言えるものである。
 えりも岬の緑を守る会は、自らの手で緑を育て上げるため、昭和58年から毎年植樹祭を行っているほか、環境保全の大切さと森林による公益的機能が生活環境の改善に果たす役割を紹介するなど、現在、地球規模的の課題となっている環境保全運動の見本となる活動を実施している。その活動が各関係機関に認められ、「えりも岬の緑化事業」は、小・中学生の教科書などにも取り上げられている状況であり、最近ではNHK放送局の[プロジェクトX]の番組で放送されたばかりである。
 今回応募した理由として、来年の平成14年には、えりも岬緑化事業の50周年の節目であるとともに、今では常識となりつつある森林の機能や環境の大切さをもう一度この「えりも岬の緑化事業」を通して再認識し、環境保全に対して個人、企業、地域などに少しでも考えていただき、生態系全体を視野に入れた取り組みが全国各地に広がるのを願い、応募した。


最終目標は「昔の原生林の再現」

 このえりも岬は当初、広葉樹の原生林であったと記録されているが、人間の生活環境などにより衰退し、その復元は自然条件などの厳しさもあって自然治癒が困難となり、森林を人の手で復元するほか手立てがなく、その代償として半世紀近い年月と多くの投資と労力を費やした。
 森林よる防災機能をより高め、健全で永続的な森林構成を図り、郷土樹種である広葉樹が侵入、育成できる環境づくりが課題であり、最終目標は「昔の原生林の再現」。
 最後に平成4年に緑化事業40周年を記念して発行された小冊子に、次のような文があることをお知らせしておわりとしたい。

 「人間が自然をよみがえらせた『えりも岬緑化事業』は、『エコロジー』という思想が、まだ社会的に認識されていなかった時代に始まり、その重要性を誰もが意識し始めた時代に成功を宣言した画期的な事業です。しかも、これは人間と環境の新たな関係を模索した先駆的な事業と位置付けられます。」

 この事業を支え、共に進めてきたのが「えりも岬の緑を守る会」である。