「ふるさとづくり'01」掲載
<市町村の部>ふるさとづくり賞 主催者賞

『文化のまちづくり』小出郷文化会館
新潟県 小出郷広域事務組合
 小出郷文化会館建設と運営による「文化のまちづくり」物語のはじまりはじまり…

なぜ文化だったのか

 小出郷広域圏は、新潟県の南端に位置し、福島県、群馬県との県境に接し、越後三山を始めとして2000メートル級の山岳、奥只見湖などの湖沼、魚野川など多くの清流を配した自然に恵まれた地域です。当圏域は、堀之内町・小出町・湯之谷村・広神村・守門村・入広瀬村の6町村で構成されており、人口は約46000人です。
 平成元年、若者主体による「小出町まちづくり研究会」が発足しました。研究テーマの代表的なものは、話題になりかけていた「文化」でした。ホールを中心とした町づくり「バッハホール」など先進地視察の多くは文化を中心とする町でした。また、「文化フォーラム」と題した講演会やシンポジウムを定期的に開催するなど文化会館の建設に向け、住民自らが意識の醸成に努めてきました。
 平成3年、新潟県の補助金が創設されたことにともない、小出郷広域事務組合(前述6町村)で文化会館建設の合意がなされました。建設に向け作業は順調に進むかと思われましたが、その後、建設位置での町村間の綱引きがあり、建設位置が宙に浮いたまま1年近く作業を中断せざるを得ませんでした。平成4年10月関係者の調整により現位置に建設することが決定し、知識のない担当職員がにわかに事務局案を作成し、住民の文化団体などに建設計画を説明することになりました。


行政担当者への絶縁状

 ホールの規模は、理事会(広域事務組合の町村長の決定機関)で1200席と400席が決定しており、その席数を以って、平成5年2月に広域的に集められた文化団体代表者への説明会が行われました。席上、「この小さな圏域で1200席のホールはいらない。収容人数の変更は可能か。」「今まで、文化会館建設に自分たちなりに勉強してきたのに住民に何も相談せずに作ろうとするとは何なんだ。」など様々な意見が出され、参加した人が釈然としない形で会は閉じられました。その日、その中の1人の家に集まり、役場の担当者めがけての抗議文を作成し、翌日担当者にその「絶縁状」が届けられました。「絶縁状」は、行政の建設に対する進め方への怒りと今のやりかた(住民の意見を聞く耳がない手法)で建設するのであれば、住民は文化会館を利用しない旨の過激な内容でした。絶縁状をもらった担当は、上司と相談し、その日の夜、役場でその人たちと会うことになりました。怒る住民たちとの話し合いは、役場から某医師(現文化会館企画運営委員長)宅に移り、深夜まで続き、住民が自主的に文化会館建設を研究する会の発足が決定されました。


住民による文化を育む会誕生

 翌々日、圏域内に400ある文化団体すべてに連絡し、第1回の研究会議が行われました。参加者は約30人。名前も「住民による文化を育む会」と決まり、住民有志の会とし出入り自由、運営費は参加者のカンパで賄う。役員は置かず、雑用係の世話人を数名選出(現文化会館館長他)し、毎週火曜日に会を開催していくことが決まりました。当面の研究課題は、2か月後に県に提出しなければいけない「文化会館建設基本構想」づくりです。以降、週1回の会議が50数回続けられました。検討は、最初は怒りのぶつけ合い、つぎには会員同士180度違った方向や千差万別のアイデアなどから焦点が絞りこまれ、最終的に文化会館のコンセプトが合意されていきました。怒りから協調、絶大なる協力へと会の姿が大きく変貌し、「小出郷文化会館建設基本構想」が完成しました。
 完成した「小出郷文化会館建設基本構想」は、会の世話人が直接広域事務組合理事会に出席して提案し、了承されました。また、設計士とも懇談を深め、設計に関しても女性トイレ数を多くするなど住民の意見が随所に盛り込まれました。
 平成6年5月ついに建設が始まりました。槌音が聞こえる中、館長がなかなか決まらない。役場OBのあの人を、そんなうわさが流れるなか、役人の館長はダメだということで一致していた文化を育む会のメンバーは、こんどは館長探しに奔走を始めました。平成7年9月に業を煮やしたメンバーは、会の世話人で地元でコンサート活動を続ける大長工務店専務・大工の桜井俊幸を(社)小出青年会議所等5団体の連名で理事会宛に文書で推薦しました。推薦を受け理事会は、10月に桜井俊幸を正式承認し、39歳の大工の館長(非常勤特別職)が誕生しました。


住民の応援団が組織される

 建設基本構想に盛り込まれたテーマは、「四季の響(おと)と出会いの郷(さと)」でした。コンセプトは、(1)いきいきとした子どもたちの感性を磨く、(2)地域においての芸術文化の核施設として機能する、(3)さまざまな交流を行う(4)世代を越えた環境づくりを柱としています。世界に誇れるホールをと意気込んでの議論が出発点でしたが、多くの時間とさまざまな議論の結果は、「世界一のホールや日本一のホールはいらない。この地域にとってベストな会館をめざそう」でした。
 文化を育む会の検討の中で、さまざまなしくみも検討されました。少ない予算とスタッフでホールの運営を行うには、住民の協力が欠かせません。民間館長のフォローをとさまざまな応援組織がつくられ現在も継続して活動しています。

(1)ステージスタッフ:客席誘導・照明・音響等のボランティアを組織しました。定期的に研修し、事業に積極的に参画しています。
(2)サポーターズクラブ:住民メセナ団体。当初400万円の財源不足を補うために館長が理事会を口説き落として発足。文化を育む会のメンバーが呼び掛け現在も役員を務める。年会費法人会員3万円・個人会員1万円で、金は出すけど口は出さないというありがたい団体。継続して事業を支援。
(3)友の会:公演の鑑賞・事業協力など地域のホールメイト。文化を育む会のメンバーが会長を務める。ホールの自主事業や関係する記事を「友の会会報」として隔月に自主的に発行。
(4)住民プロデュース:文化会館が主催するジャズ・映画・木工芸などの事業を住民自らが企画・運営する。
(5)企画運営委員会:文化会館の方向や事業企画、課題等を検討する機関。


世代を越えてひとつのステージを

 コンセプトに基づき現在21の自主事業を展開しています。実施主体は、魚沼文化自由大楽実行委員会(構成:各町村長・企画運営委員)です。実施内容のほとんどが、単なる買い公演ではなく、プロの演奏家などと一緒になって企画・制作する事業です。セミナー+演奏会+発表会(時にはプロとの共演)がほとんどです。リコーダーの世界的な第一人者が月1回訪れセミナーを開催。そこに集うのは9歳から64歳までの世代を越えて集まる50人の受講生は、同じ練習を通し同じステージに立ち、世代を越えて一つの文化が創られます。地域の素人で結成する劇団は、すでに3回の定期公演を成功させています。
 芸術文化は、ホールのものだけではありません。文化の核施設として、地域へのアプローチも大きな役割です。一流のオーケストラのメンバーが、学校の音楽室で演奏をします。目を輝かせ、耳をダンボにした小学生がそこにいます。国の重要文化財の豪農の館のいろり火が燃える前で、リコーダーとリュートの演奏会が開かれます。文化会館が地元教育委員会や施設と共催して、地域と密着した芸術文化活動を展開しています。


魚沼文化自由大楽構想

 文化会館が開館して早5年が経ちました。文化が地域に根づくには長い年月が必要です。小出郷文化会館を中心にした「文化のまちづくり」は、まだまだ種まきや土を耕しているに過ぎません。怒りから始まった住民の皆さんとの協働作業はさらに続いていますが、それ以外の住民との関係など新たな課題も山積しています。これらの反省から、今までの検証・評価を住民のみなさんとともに議論し、新たな方向・夢を見出そうと、ワークショップを重ねてきました。その結果、この地域で大正時代に住民自ら中央の著名な講師を招聘して行われていた「自由大学運動」を見直し、再構築した『魚沼文化自由大楽』構想ができあがりました。
 これら、『魚沼文化自由大楽』を地域のみなさんとともに機能させていく取り組みが今後の課題となりました。また、みんなで知恵と汗を流す協働作業が始まります。これこそが、小出郷のスタンスなのですから。