「あしたのまち・くらしづくり2013」掲載
あしたのまち・くらしづくり活動賞 内閣総理大臣賞

子どもと高齢者の笑顔のあるまちづくり
岩手県陸前高田市 長洞元気村協議会
 陸前高田市広田町長洞地区応急仮設住宅団地を長洞元気村(19世帯、26戸、79人)と呼んでいる。震災後、長洞集落(60世帯、約200人)のコミュニティを維持させたいとの思いから被災者自ら地権者を説得し、行政に要望してできた稀有な仮設団地である。「被災地近接・コミュニティ丸ごと・被災者主体」を実現し、住民主体の自治会運営と好齢ビジネス(女性と高齢者の雇用創出事業)を展開、携帯電話を活用したネットワークを構築(IT革命と呼んでいる)、ブログやフェイスブックで村の様子を全国に情報発信する、活力に満ちた仮設団地である。
 津波は長洞集落の28戸/60戸の家屋家財を全壊流失させ98人の住まいと多くの世帯が生業としていた船や作業小屋や漁具を奪い去った。水道・電気・電話が途絶え、物資を運ぶはずの道も被災し通ることができなくなり、長洞集落がある広田半島は完全に孤立したのだった。自然の驚異に怯え戦き「どうなるのか。何をどうすればいいのか」ただただ不安な気持ちで迎えたあの日の夜、小雪が舞う2011年3月11日、まさにどん底からの私たち長洞集落のまちづくり・くらしづくりが始まった。
 声を掛け合い高台にある自治会長の自宅に避難したのは暗くなりかけた夕方である。女性部が賄い班となって全集落民分の炊き出しを開始。自治会役員が中心になって対策会議を行なう。被災者は、集落内の被災を免れた民家に分宿し避難生活を始める。翌日には集落内の家々に残っている米(食料)の量を調査し自治会に提供していただくことを確認、集落にいる200人の約1か月分の米(食料)を確保する。仕事に行ったまま戻って来ない長洞集落民が市内の避難所にいないかどうかの情報収集と安否確認は2コースに分かれて捜索。医薬品調達は1日目は処方箋や薬手帳を回収し持って病院へ、2日目は1日目にいただけなかった人をワゴン車に乗せ病院へ連れて行く。夜の見回りや使える漁具・燃料などの回収活動も実施。自治会が食料・飲料水・燃料等を管理統制して協力を呼びかけながら生活再建に向けた取り組みをすすめたのである。陸前高田市役所は庁舎そのものが被災し約300人の職員のうち約100人が犠牲になり、行政機能も停止した状況だった。長洞集落は自ら生き抜くために一丸となって動き始めた。次から次と出てくる問題や課題を一つひとつ自治会役員会で話し合い、集落全戸集会で確認し、認識を共有しながら住民主体の災害対策が展開されていった。
 学校も被災し休校となる。子どもたちの学習機会がなくなったことを憂い、集落にいる教員の協力を得て、3月23日に地域学校(寺子屋塾)を開設、小中学生34名の元気な学習活動が始まった。集まってきたのは子どもだけではなかった。80歳90歳の高齢者の方々が遠巻きに子どもたちの活動の様子を見て「長洞にも未来があるんだ」「この子どもたちのために頑張らないと…」と声を上げるのだった。ライフラインが途絶え絶望的な光景が広がる中で長洞元気学校と呼ばれた地域学校は長洞集落に元気とやる気を送り続けたのだった。
 仮設住宅への入居は抽選方式ですすめるという陸前高田市の方針に、地域コミュニティの危機を感じて動き出す。4人の地権者を説得し約1200坪の畑を無償で5年間借用、入居申込書(19世帯、26戸)をまとめて長洞集落の被災者のための仮設住宅建設要望書を提出する。粘り強い取り組みと要求交渉を幾度となく続け、長洞地区仮設住宅の実現となる。2011年7月17日、長洞元気村(長洞地区仮設住宅団地)の開村式が行なわれ「復興の誓い」が確認された。
 現在、震災前の家の並び順に入居し被災前から続いている信頼関係を維持し、仮設住宅の「くらし」の快適化を進めながら「新しい長洞づくり」に取り組んでいる。「笑顔の集まる土曜市」では畑で採れた野菜や支援物資で分けきれなかったものなどが販売され、売り上げは自治会の共益費に繰り入れられている。市日はほとんどの世帯が顔を出し、賑わいとなる。出てこない人がいれば必ず声をかける。誰が決めたでもないが自然な形で声を掛け合うことで生活不活発病や閉じこもり・孤独死などの予防活動が行なわれている。
 多くの世帯の玄関には庇が設けられ雨の日の交流も容易に行なわれる。隣近所話し合って自前で快適化の工事をすすめたのである。集会所周辺の庇は共益費で材料を仕入れ、共同作業で完成させている。中には元気村横丁の赤提灯を下げ、隣近所を誘いながらビールを飲んでいる村人もいる。瓦礫を集めて作られた屋外ステージ(ウッドデッキ)が村の中央にあり、その向かいには8畳ほどの「長洞の未来」の大きな絵画が掲げられ、長洞元気村の看板の下には地域の方々から手形やメッセージを集めて子どもたちが作成した6畳ほどの大漁旗が備え付けられている。村の奥には直径5メートルのアフガニスタンから贈られたという遊牧民テント「パオ」がある。本当にここは東日本大震災による被災者が入っている仮設住宅なのだろうか。そう思わせる村の光景である。訪れた方々からはディズニーランドのテーマパークみたいだと言われるほどである。
 長洞元気村が開村したのと同じ時期に、仮設住宅の女性たちが12人集まって「なでしこ会」が結成された。長洞集落の伝統菓子「ゆべし」を作って販売しようと集まったのである。日中働きに出る男たちに替わって主体的な自治会運営をも担っていただくことになる。長洞元気村の元気学校や仮設住宅建設に関わる取り組みが新聞・テレビなどで取り上げられることが多く、その対応に追われる村長や事務局長の負担軽減を図ってくれたのは、このなでしこ会の方々の主体的な活動で、自治会運営上も大きな成果を生んでいる。
 そんな中で「ボランティアツアーを受け入れていただけないか」という問い合わせが入る。長洞元気村役員となでしこ会役員で話し合う。「昼食はどうするか」「トイレはどうするか」「不安はあるけどやってみよう」「被災地に来るのだからある程度の不便は分かってもらえると思う」料金を頂いて受け入れることは確認したのだが、大きな課題が残った。「ボランティアって何をしてもらおうか」である。
 震災から約1年経った4月、復興まちづくり研究所の濱田・原先生を迎えて第1回長洞未来会議を開催、新しい長洞づくりについての話し合いが始まった。漁業と港をしっかりと再生させたい。この震災の教訓を後世に語り継ぐべきだ。「ゆべし」を売ってはどうか。震災前の長洞に戻すのではなくもっと活き活きした集落にできないだろうか。漁業体験ツアーや農業体験ツアーの受け入れ民泊はできないだろうか。できるところから少しずつでも実践してみようということになった。最初のボランティアは語り部ツアーや漁業体験ツアーのモニターになってもらおう。ということになった。ちょうど1年前、東京都世田谷区のNPO法人サースの方々のボランティアツアーを受け入れたのだった。
 長洞元気村ではできる限りのおもてなしを考えて準備をする。被災者の思いに寄り添おうとする訪問者(モニター)、交流が感動を呼び深いつながりになっていく体験は何にも代え難いものがある。充実感と感謝の思いが広がっていく中から復興への思いも強くすることができたのだった。約1年、有償・無償の約30団体総勢300人は受け入れたことになろう。
 陸前高田市(気仙地域)の特産品を年4回送る長洞元気便の取り組みも始まった。長洞支援会員の募集を行ない、会費に応じた特産品を提供する事業である。70人余りの会員へ送る特産品の生産・加工を含めて好齢ビジネス事業へのチャレンジが続いている。
 グローバルな働き方を避けローカルな時間を気にしない働き方である。孫の世話や高齢者の通院付き添い、親戚の行事など生活優先の働き方である。働けた分だけ賃金を支払う。働いた方々は、集落の未来のための活動に生き甲斐を感じ「時給500円を」もらいすぎではないかと気遣うくらいだ。収入を生み出す活動が強い絆をさらに強くしているように思えてならない。
 富士通とドコモから40個の携帯電話の支援をいただいたIT革命。初めて携帯電話を手にした人が5人いた。音が鳴ったらパカッと開いてボタンを押して話します。個別の操作説明から始めなければならない状況だったのが、今では一斉メールを活用したネットワークが構築され活用されている。「秋刀魚のほしい人は入れ物を持って集会所にお集まりください。17時からお配りします」というメールを見ると袋やボールを持って集まってくる。役員会や自治会からの連絡はほとんどがメールである。ブログで発信された情報も定時に携帯に配信され情報の共有がすすめられている。これが長洞元気村の大きな財産になっている。
 津波で家屋・財産を失い住宅再建に取り組んでいるが、一人ひとりが競争にさらされるグローバルな住宅再建では精神的にも経済的にも行き詰まってしまう。お互いの生活や価値観を認め、協力できるところを探し出すことが地域コミュニティである。食べきれないくらいの漁があったときはみんなに分けて配る。それが小さな漁村の伝統である。俺は地域のみんなに見守られて育てられた。だから、見守る義務があるのだ。小さな漁村の常識である。被災者を代表して震災の翌日の集落全戸集会で「なんとか俺たちを助けてほしい」現長洞元気村村長が頭を深々と下げた。「そんなの当たり前だ」古老が答えた。儀式のような問答の中に私は地域コミュニティの中で生き抜こうとする覚悟をみたと思っている。
 「高齢者と子どもの笑顔があるまちづくり」が長洞元気村のスローガンである。子々孫々が活き活きと暮らせる長洞集落のまちづくり・暮らしづくりはそこで生き抜く一人ひとりの覚悟と行動(活動)によって少しずつ前に進んでいるのである。