「あしたのまち・くらしづくり2012」掲載
あしたのまち・くらしづくり活動賞 振興奨励賞

復興支援から学んだこと
兵庫県淡路市 復興支援ネットワーク淡路島
Ⅰ はじめに 『阪神・淡路大震災』の体験を活かす
 台風、たつ巻、水害、地震など、日本はまさに災害大国といっても過言でないほど、これまで様々な災害に遭遇しています。国民のそれぞれが被災者になり、支援者になってしまう現状があります。
 予想だにしなかった阪神淡路大震災の時、淡路島では倒壊した瓦礫の下から消防団や地域住民が多くの尊い命を救いました。日頃の地域コミュニティの効果や復旧・復興へ前向きな意欲と行動を通して、人と人との絆の大切さが見えました。
 また、地震直後の救援物資は、善意や好意の「かたまり」で、精神的にも大きな支えとなりました。しかし、短期間に大量の物資が届き、場所の確保や受入れに多くの人手と時間を費やし、被災者のニーズに応じた物資の仕分けや提供には大変な人的エネルギーと時間が必要でした。最終的には、時期外れや着古しの衣類、賞味期限切れの食品など不本意でしたが、処分せざるを得ない現実もありました。
 私たちが、救援物資の送り方、受け方、適切な管理について『阪神・淡路大震災』から学んだことを生かした取組について、淡路島から発信したいと思います。

Ⅱ 取組
1 経験を活かした支援を(淡路島で)
 3月11日の被災後の3月17日に「復興支援ネットワーク淡路島」を立ち上げました。当初は30人ほどの集まりでしたが、口コミで淡路島全体から行政の方々も含め、100人を超えて参加していただきました。東北地方への支援では、『阪神・淡路大震災』での被災やボランティアの経験から学んだ教訓を生かして、無理と無駄のないように、「被災者のために気持ちを込めて行動する」ことを基本に考えました。
 宮城県庁やNPOとのネットワークの情報で、必要な物資を集めました。震災直後、需要が多かったのは水と毛布、防寒着と食品などでした。そこで、必要とされている物資を、マスコミなどを通じて募集しました。
 そして、洲本市の協力を得て、仕分け基地として閉館していたスポーツセンターを借り受けました。
 私たちは被災地でのゴミを減らすために、衣料品などの包装は外し、種類の分かるようにタッグだけを残しました。被災地で分別の手間がかからないよう種類別、男女別、年代別、サイズ別など品目ごとに細かく仕分け、別々に箱詰めしました。薬なども、「頭痛薬」「風邪薬」「うがい薬」などに細かく仕分けしました。
 また、現地で作業がしやすいように段ボール箱の大きさを揃えました。被災地で整理、積みやすくするためです。また、中身の物資の量ではなく、軽めに同じような重さに調整しました。現地で運びやすくするためです。送るときに二人で持たなくてはいけないモノは、被災地でも二人が必要になるからです。リレーで運びにくくなってしまうのです。
 特に2回目からの宮城県行きは、神戸の食品会社の「東洋ナッツ(株)」から堅くて丈夫な段ボール箱を提供していただきました。現地では横向きに積み重ねて整理ボックスとしても応用出来ることを提案しました。
 本来なら、救援物資の受け入れ場所には、整理棚を作るのが良いと思います。整理もしやすいですし、モノも出し入れしやすくなります。最初の救援物資は整理棚キットを送るのが良いと思います。
 不足している物資のリストに基づき、何度か島民の方々に物資の募集をしました。足りない物は義援金を活用して揃えました。運送は淡路島内の「淡路共正陸運」という運送会社が、10トントラックの無償提供を申し出られて、二度も輸送していただきました。また、約1700箱の救援物資の積み込み作業には、洲本高校の野球部部員も応援に駆け付けてくれました。

2 経済活性化とコミュニティへの支援を
 平成24年7月末現在で、10度被災地をお訪ねしました。
 被災地で最初に気がついたことは、どの市町も共通して、全国からの救援物資がキチンと分別、活用が出来ていないことでした。『阪神淡路大震災』での物資の失敗を思い起こさせました。
 救援物資や被災者のニーズは日毎に変わって行きます。このままでは冬物衣料などは活用されずに「大勢の方の善意や支援が無駄になるかも・・・」と感じました。その上、阪神淡路大震災の時に過剰な救援物資の影響で、地元経済の活性化や地域の中のコミュニティが崩れて、復興が進みにくかったことも頭をよぎりました。
 その時、「許可を得て防寒着等の余剰物資を淡路島へ運ぶ → 仕分けをする → バザーを開催し換金する → 必要物品を宮城県内の業者より購入する → 地元業者が被災者に配達する」という「経済の活性化支援とコミュニティへの支援」というサイクルが浮かんできました。被災地の業者と被災者のつながりも大切にしなくてはいけません。
 宮城県庁に提案すると「もう少し様子を見て、いずれ取り組む時には協力していただきたい」との回答を得ましたが、事態は深刻でした。
 4月26日、宮城県七ヶ浜町の町職員から「引き取り手がなく、余った救援物資がたくさんある。全国からの防寒着などの余剰物資が倉庫にあふれ、必要な日用品の保管場所に困っている」という話を聞きました。そこで、「ゴミになるよりは…」と持ち帰って販売させていただくことを提案しました。
 町側は「保管スペースもかなり増え、ありがたい申し出だ。これで全国の皆さんの善意を無駄にしなくて済む。また、地元の経済復興にも配慮され、さすが、阪神・淡路大震災を経験した地域ならではの支援」と喜んでいただきました。

3 余剰物資を有効に活かす
 4月29日、約1200個の段ボール箱の衣類や靴など、全国からの余剰物資を淡路島に持ち帰りました。
 5月中・下旬、持ち帰った物資をバザーで販売するためにボランティアの協力で仕分け作業に入りました。びっくりしたのは、実際に売り物になりそうな物資は全体の3分の1程度だったことでした。これは予想外でした。当初から、被災者への尊厳と生きる希望を保持してもらうために新品の提供を呼び掛け、あれほど協力を依頼していたのに…と口惜しい気持ちと同時に、改めて支援のあり方をきっちりと検証しなければいけないというファイトが沸き上がってきました。
 6月上旬に支援バザーを洲本市のボランティアグループの愛育班やダンディーズが中心になって開催していただき、南あわじ市、淡路市でも婦人団体や個人の協力を得て開催致しました。50万円近くの売上金、さらに、活動支援金も多くの方の協力で100万円を超える金額が集まりました。
 支援金を有効に使うために、七ヶ浜町当局と相談しました。5月下旬に仮設住宅421戸が完成し、入居を開始するとの情報を得ました。そこで入居後すぐ必要な壁掛け時計、洗面器、洗濯バサミ、ハンガー、爪切りなど生活用品を寄付金で購入してお届けしました。

4 経済と心を元気に!
 また、七ヶ浜町に「みお七ヶ浜」という障害者支援の授産施設があり、豆腐などを生産販売されていましたが、売り上げが減少して困っていることを耳にしました。「売れないままだと残っている原材料もダメになってしまう」ということでした。
 そこで、11日の被災者を悼みながらも復興を誓った翌日の12日を「豆腐(とお+ふ)の日」として、405戸の仮設住宅に毎月12日に豆腐を届けることを提案しました。毎月7万円が必要です。
 「授産施設みお七ヶ浜」から毎月豆腐を届ける費用に、バザーの売上金と義援金を使うことにしました。七ヶ浜町の広報誌で、「12日を『とうふの日』とすること」が紹介されました。この「とうふの日」の支援活動が仮設住宅入居者と授産施設職員とのつながりと交流、現地の経済の活性化はもとより、七ヶ浜町の人々の元気回復につながってくれればと願っています。7月9日、七ヶ浜町渡辺町長の立会いの下で、バザー売上金50万円と義援金をあせて105万円を豆腐代金の前払い金として「みお七ヶ浜」の長井所長に手渡しました。被災直後こそ現金が必要だと思ったからです。この「とうふの日支援」は、仮設住宅がなくなるまで続けたいと思っています。
 激励のための寄せ書きを避難所に送られた方々も多くおられました。避難所にいる間は精神的に大きな励みになります。しかし、避難所の引き上げ時に現地ではその処理への対応に苦慮されていることも認識するべきだと思います。心のこもったそれらのモノを捨てられないのです。そこで、提案ですが、「用の済んだ寄せ書き」等は、着払いで送り返していただくことに決めたら良いと思います。自分たちの送った「激励のもの」が役割りを終えて帰って来た時、新たな交流が生まれるような気がするのです。

5 自立のための支援を
 復興が進まない中、師走を迎えたとき、お正月用の餅をつくことを提案致しました。
 被災者に良い新年を迎えていただき、引きこもりがちな方々にもコミュニティの場を提供し、現地の方々との交流を深めつつ、ささやかな経済支援が出来たらと考えました。
 阪神淡路大震災のとき、仮設住宅に入居された方々の孤独死が起きて、社会問題にもなりました。少しでも、それをなくしたいと思いました。
 餅つきの杵や臼、電気の餅つき機は、島内や神戸の仲間から集めました。もち米や片栗粉、皿、箸、など材料は全て、現地で購入致しました。マスクや軍手などの消耗品も現地で準備していただきました。出来る限り、現地の経済支援を優先させたかったのです。
 12月22日、七ヶ浜町の婦人会の鈴木会長さんをはじめ、20人もの婦人に手伝っていただき、和気あいあいの中、360キログラムの餅を2日間でつきました。共に作業をすることで、作業終了後の交流の時間もお互いに楽しく過ごせたと思っています。つまり、私たちからの支援ではなく、共に協力し合った餅つき大会だったのです。
 仮設住宅への全戸配布と、地元ボランティア50名、町職員の方180軒分の餅をついて、配布致しました。意外に、公務員の方々には支援の手が届きにくいのです。実際には自分のことも出来ずに、住民のため、仕事に取り組んでおられるのです。
 餅つきでびっくりしたのは、きな粉やあん粉も準備しましたが、子どもたちまで一番人気だったのは納豆餅でした。つきたての餅に納豆をまぶして食べるのです。関西では思いつかないことでしたので、現地の方に準備をお任せした成果だったと喜んでいます。
 良かれと思って支援しても、文化の違いに気がついていないこともあるように思いました。現地の方々とのコミュニケーションがどれほど大切かと改めて認識しました。
 現地での炊き出しも、現地の方との連携で、材料などは現地で購入し、現地の方の味付けで食べていただくのが最良だと思いました。

Ⅲ おわりに(活動の振り返りと今後)
・支援される人の気持ちや思いを一番に思いやること。そして、理屈や規則でなく、過去からの学びを行動に移して、今必要な物を、必要な所に、確実に速く届け、現地での作業を最小限にする方策に力を尽くすことが大切だと思います。そのためにも官民一体となって、それぞれの役割を果たすことだが大切だと思います。
・支援する側とされる側ではなく、互いに同じ土俵に立って、地域づくり、人づくりを目指す仲間として共に考え、行動することも大切だと感じましたし、時間の経過によって、支援の中身も違ってきます。現地の声をしっかりと聞き、ニーズにあった支援が大切だと思います。小さな団体ゆえ、発想や実行が大胆に出来たと思いますが、仕分けする備蓄基地の提供や情報収集、高速料金の免除など行政の支えがなければ出来なかったと思います。
・被災者の自立復興のために、いつの時期でも一番必要で有効なものは、『現金』だと思います。被災地の経済を起こすことが復興に繋がるのだと思います。出来るだけ物資は被災地で購入し、地域の経済活性化につなげることとその地域のコミュニティを守ることが大切だと思います。支援も長く続けることを目標にしなくてはいけないと思います。
・そして、最も大切なことは、経験を検証し語り継ぐことだと思います。自然災害は防ぐことは難しいと思います。しかし、経験を活かせれば、減災は出来るはずです。連鎖の災害も防げるはずです。
 今後も経験を活かし、ニーズに合った活動を息長く続けて行きたいと思っています。