「あしたのまち・くらしづくり2011」掲載
あしたのまち・くらしづくり活動賞 振興奨励賞

農業ボランティアの受け入れと地域活性化
沖縄県竹富町 西表島農家援農環境ネットワーク
 私たち「西表島農家援農環境ネットワーク」は、沖縄県の南端、八重山諸島にある西表島にて、農業ボランティアの受入れを行なっている団体である。
 西表島は沖縄本島に継ぐ面積を持つが、90%が亜熱帯ジャングルに覆われている。“東洋のガラパゴス”と称されるように、希少生物・固有種、そして天然記念物など多種多様な生物が共存し、その生物多様性により、島ならではの風景・風土を形成している。
 この西表島は、大きく2つの区に分かれており、1977年まで道路で繋がってはいなかった。そのため、今でも西部と東部とでは、祭事の方法や言葉に違いがある。今でも島を1周出来る道路は通っておらず、道路が走っていないエリアは手つかずの自然が多く残っている。
 島の産業は、主に観光業、そして農業である。観光バスは、東部と西部とが繋がるまでは1台もなかった。道が開通したことで、1台、2台と増え、今では60台を超えるようになり、またレンタカーが島人の車よりも増え、毎日、東西を往来している。隣島の石垣島から日帰りの観光客が大半を占めるようになり、観光バス、そしてレンタカーの需要は高まる一方である。近年、車の音に慣れた、親離れしたばかりの子猫の死亡事故が目立つ。大型リゾートホテルの建設、観光バスやレンタカーの急激な増加等の観光化と、それに伴う道路の環境整備の裏では、生態系が、急激に変化していることを実感し、危惧しなければならない問題である。
 この西表島は、戦時中は、“戦争マラリヤ”という歴史を持つ。日本軍による軍命により、近隣・波照間島の島民全員が、マラリヤが蔓延する西表島に強制疎開を強いられ、そこで多くの人命が失われた。戦後、波照間島に戻ってからもマラリヤ有病者は増え続け、波照間島民の3分の1の方(461人)が亡くなられている。また強制疎開地西表島においても、密やかに、日本軍人による住民の無作為な殺戮も、「軍命に逆らった」という名の元に行なわれている。この戦争の歴史を知る人は、八重山に住む人以外で知る人は多くはないだろう。
 戦後のマラリヤ駆除により、西表島には沖縄本島北部のやんばる地区、宮古島、そして西表島の隣島、新城島・竹富島・波照間島から、農家の二男や三男たちが夢と生きる土地を求めて開拓に入った。ジャングルに覆われた土地を、人力と水牛により開墾していったのだ。現在でも先人たちの精神力は凄まじい。これは、開拓をしてきたという自負、またそこで生き抜いてきたという自信からくるものだろう。開拓1世たちはジャングルを畑にし、そこでサトウキビを作り、子どもたちを育てた。東部での基幹産業はサトウキビとなり、畑はサトウキビの緑色に覆われた。その頃は、サトウキビの植え付け・収穫は“ゆいまーる”という相互扶助により行なわれていた。3、4軒の農家が協働して働くという助け合いの精神により、重労働にも耐えられたのだろう。
 サトウキビの収穫(以下、キビ刈り)は、開拓時代から今に至るまで、全てが手作業で行なわれている。人の背丈の倍以上の長さのサトウキビを、1本1本ナタで倒す。次に、そこに付いている葉柄を鎌で取り除く。この一連の作業により、本当に甘い部分だけを取り、そこから上質な黒糖を作る。八重山諸島の石垣島を除く島々では、未だに手作業によるキビ刈りが行なわれているのだ。しかし、この手作業による農作業は、若い者でさえ重労働である。開拓1世たちは、1980年代初頭には高齢化により、畑に立つことが困難になった。そこで、西表島を離れていた開拓1世の子どもたちが、親たちの畑と家を守るため、Uターンして来るようになった。キビ刈り時期は、細々と“ゆいまーる”は続けられていたが、Uターンしてきた子どもたちは、多くがサトウキビ専業農家にはならなかった。折しも観光業がウナギ昇りの状況であったため、天候に左右されず安定した収入を得られるその産業に就く人、建設業に就く人も多かった。あるいは、国の事業として町が推進した畜産業に就く人も増えた。
 “ゆいまーる”が機能しなくなったのは、1980年代後半である。それぞれの農家の事情により、2、3軒で協働することさえ難しくなった。その頃は、片手で数えられる程の内地からの労働者と台湾からの出稼ぎ者が、人手不足の家に住み込んで、キビ刈りを支えていた。当団体の代表世話人も、その当時にキビ刈り労働を経て内地より西表島に移住、サトウキビ農家として就農した人間である。彼の元へは、就農当時より内地から研修生、ボランティアが常に滞在していた。滞在する若者たちは、島の現状を知り、キビ刈りに参加したいと、あえてその収穫時期に集まるようになった。それは口コミで広がりを見せ、当初は数人だったボランティアも、その翌年にはまた数人増えて、さらに年を追う毎に、その数は増えていき、人手不足の農家へ助っ人として手伝いに行った。
 これらの活動が、農家の有志たちの心をゆさぶった。“ゆいまーる”存続のために、また島の活性化に結びつけたいとの想いから「西表島農家援農環境ネットワーク」が結成された。1994年のことである。
 それまで農家だけで行なわれてきたキビ刈りは、若いエネルギーの投入により一転し、農家自身が驚き、元気を得た。農家の皆さんが、素人のキビ刈り収穫ボランティア(以下、援農隊)が畑に立つことを受け入れ、彼らに、農作業だけでなく島での暮らしを伝えた。仕事の後には、農家が自ら仕留めた琉球イノシシ、魚、カニや、ヤギ肉といった自然の恵みを振る舞った。三線を弾き、民謡が日常的にある姿に、援農隊員は文化の違いに驚かされる。お年寄りからは、戦争マラリヤの歴史、あるいは開拓時代の話を聞く。遠い昔の話でも、それは若者の胸に刻まれる。農家は、休日には、イノシシ猟に連れて行ってくれ、そして援農隊員は圧倒されるジャングルを目の当たりにする。畑では農家に怒られ、重労働がキツイと言っていた若者も、いつの間にか、キビ刈りに魅了されてゆく。農家との距離感が近くなるにつれ、キビ刈りをする意義を考えるようになるのだ。農家も、自分たちの暮らし方に自信が持てるようになった。毎年催される交流会では、援農隊の若い参加者は、そこで自分の得意とする音楽や踊りを披露し、そこは西表の文化と内地の文化が交流する空間となる。
 西表島農家援農環境ネットワークは、毎年キビ刈りに来る援農隊員に、何度かのワークショップを開催している。昔からの暮らしを伝承している方を迎え、話を聞く。そして三線の音に合わせ、皆で踊る。独自の民俗を知ること、それが島への理解であったり、その先に続く環境保護であったりする。また大自然の中で生きる動物たちにテーマを向けたミニ講演会では、イリオモテヤマネコを初めとする絶滅危惧種についてのレクチャーを受ける。現状を知ること、意識を持つことが、西表島を知ることだと、援農隊員から感想が寄せられた。島に滞在している時間自体が、“非現実”かもしれないが、島で生活している人々が何を考え、どのように生きているか、知恵・豊かさ等、その一端でも体感してもらうことに、私たちの活動の、ひとつの意義があると思っている。西表島農家援農環境ネットワークの最大の特色は、一軒の農家に、ずっと常駐するのではなく、様々な農家での体験をすることである。ひと口に島の農家と言っても、考え方、生き方が違う。その、それぞれを体験することによって、島の全体像が見えてくる。
 厳しい現実もある。援農隊受け入れに関しては、毎年赤字である。最大の問題は、援農隊の泊まる所がないということにあった。そのため、廃屋・建設業者の飯場・テント生活と、泊まる場所を探すのに四苦八苦であった。しかし援農隊OBの実数は、2000人にものぼる。このOBたちのネットワークで、援農隊が寝泊まりする宿泊所を確保することが出来た。西表島農家援農環境ネットワーク発足10年目にしてのことである。この宿泊所を「農宿さとうきび畑」と名付け、赤字経営ながらも、安定した宿泊所を得ることとなった。毎年生まれてくる援農隊OBは、そのほとんどが、自分の住む場所へと帰って行く。しかし、西表島で農作業を通じての島人と援農隊との交流により生まれた絆は、一生忘れない。
 今年も収穫期だけで、のべ約300人弱の援農参加者があった。援農隊参加者は、全員が農宿に住み込む。共同生活は楽なことではない。けれど、同じ目的で島に来た他人同士が、いつの間にか“友だち”となり、さらに“仲間”となってゆく。人と人が、小さな一軒屋で肩寄せ合って生活することで、新たなパワーが産まれる場所となっている。サトウキビという農作業が、様々な人と人との出会いを生み、新しいパワーが生まれる場所となっている。これからの農業の可能性は、そこに秘められていると確信する。そこから生まれる社会性は、彼らの将来に必ず活かされると、また確信している。自分がこの社会で、どう生きていったらいいか、試行錯誤している彼ら、彼女らの想いを、この島は優しく包んでいてくれる。
 最後に、私自身が援農隊経験者であることを付け加えたいと思う。7年前に、初めてキビ刈りに参加した。その中で生まれた農家の人々との繋がりにより、この八重山で生きてゆく決心がついた。私のように、八重山に残る人は少なくない。この地で結婚する人もいる。また、内地で有機農家として就農する人も多い。
 西表島は大きなエネルギーを発している。また援農隊員は、無限の可能性を秘めている。この結びつけの手助けを、微力ながらも続けたいと思う。