「あしたのまち・くらしづくり2011」掲載
あしたのまち・くらしづくり活動賞 振興奨励賞

限界集落に挑む「あこがれ千町の会」の挑戦
兵庫県宍粟市 あこがれ千町の会
 宍粟市一宮町千町、中国山地の東端に属し播磨と但馬の分水嶺にあたり、兵庫百名山に数えられる標高1000メートル級の5つの山に囲まれた標高600メートルの高地に広がる山間の集落です。青く透き通る空、白く浮かぶ雲、空はすぐそこにあります。
 中国山地に端を発し、千町地区を流れる清流は、途中でいくつも支流と合流を繰り返し、いつしか播磨灘へ注ぐ一級河川揖保川になります。
 かつては、播磨と但馬を結ぶ国境の地域として栄え、特に生野銀山へと通じる千町峠は、多くの人や物資が行き来する交通の要所でした。
 私たちの先祖は、この緑豊かな自然の恩恵を受けながら、林業を生業とし、山間に広がるわずかな田畑を耕作しながら、木地や炭焼きなど地域資源を活かして、自然とともに暮らしてきました。
 昭和30年ごろには、42世帯、250人が暮らした千町も、日本の社会全体が高度経済成長を経験し、収入が増し生活が豊かになる一方で、若者の流出による過疎化が進み、今では、20戸、50人が暮らす小規模集落となってしまいました。しかも、いつしか、住民の半数以上が65歳以上の高齢者で、一般的には、社会的共同生活の維持が困難とされる限界集落と呼ばれるようになっていました。
 このままでは、地域の活力が損なわれ、取り残されてしまうのではないか。そんな危機感が、いつしか、この豊かな自然を活かした地域おこしができないか。そんな思いへと変わりました。
 今から20年ほど前、減反のために取り組んだ集団転作の制度を活かして、自治会内の全ての田んぼに、コスモス畑をつくりました。雲の上のコスモスフェアーとして紹介したところ、予想を超える多くの観光客が、狭い道路を右往左往しながら千町へとやって来ました。このとき、千町に残る自然が、どこにでもあるごく普通の自然ではなく、都会に住む人たちにとって、価値のあるものであることがわかりました。
 また、一宮町が推進したiのまち創造事業では、町からの補助を活用して、集落内に特産品加工施設「いろりの里」を整備して、高原の気候を活かした高原野菜の栽培にも取り組みました。
 しかし、集落内の限られた農地では、営利を目的とした営農には限りがあります。私たちには、何か別の付加価値を見つけ出す必要がありました。
 今のままではいけない、何とかしたい。との思いはあっても、私たちだけでは、何から手を付ければ良いのか、試行錯誤の日々が続きました。
 そんなとき、県が進める小規模集落元気作戦のパートナーとしてご紹介いただいたのが、NPO法人ひょうご農業クラブでした。
 最初は、都会から来る人たちが、どんなことを期待して千町へ来るのか。種付けから収穫まで1年を通して、どんな付き合いができるのか。不安でした。
 しかし、ひょうご農業クラブの皆さんは、既に他の地区で休耕田を利用した農業に取り組んでいて、しっかりとした理念を持っておられ、私たちにとっては、ぴったりのパートナーでした。
 一番驚いたのは、たびたび千町を訪れてくれる中心メンバーの方々が、本当に千町を大切にし、交流について真剣に考えてくれていることでした。
 何度も、何度も、夜遅くまで、みんなで話し合いました。そして、ダメでもともと、この人たちと一緒に取り組んでみよう。と決めました。
 私たち千町に住む住民と村外の人々で構成する会の名は、「あこがれ千町の会」。
 今まで都会は農村の人々にとって憧れの的でした。これからはそれを逆転させる。田舎を憧れの地にする。誰もが行ってみたい、住んでみたいと思う田舎をつくる。みんなが憧れる千町をつくる。そんな夢とロマンに挑戦するという想いをこの名前に込めました。
 ひょうご農業クラブのメンバーの呼びかけで神戸など県内各地から30~80歳代の約20名の会員が集まりました。
 50アールの休耕地を、所有者から無償で借り受け、有機農法による無農薬野菜の栽培に取り組む。収穫した野菜は、ひょうご農業クラブが持つ販売ルートで販売し、収益を上げることで、持続可能な活動とすることに決まりました。
 水路などの施設も無償で提供しますが、溝掃除や草刈など千町自治会が共同で行なう作業には、村外会員の皆さんにも一緒に参加していただくことにしました。
 都会から人を呼ぶための貸し農園方式では、上辺だけの農業体験と交流で、長続きしないと考えたからです。千町で真剣に農業に取り組むのであれば、千町に住む私たちが長年みんなで守り引き継いできた地域の行事にも、積極的に参加してもらう。そうすることで、村内会員と村外会員が対等の立場で、本気で付き合いができると考えたからです。
 あこがれ千町の会の開村式には、千町の住民と神戸市など阪神間からの参加者で総勢100人を超す人が集まりました。千町の人口の2倍にあたります。
 発会式の後、みんなでスイートコーン、カボチャなどの種を蒔きました。以降、小松菜、ホウレンソウ、こかぶ、大根、トマト、ニンジン、レタス、ナス、サツマイモなどの栽培に取り組みました。
 夏には、収穫した野菜の販売が神戸六甲アイランドと相生市内の直売所で始まりました。これから収穫が増えれば、他の直売所でも販売を拡大する計画です。
 8月には、初の収穫を祝って夏祭りを開催して、都市住民との交流を深めました。
 春・夏野菜の収穫が終われば、次は、秋・冬野菜の準備です。
 いろりの里では、収穫した大根をたくあんやぬか漬けに、大豆は地元の豆腐店の協力で加工して販売する計画です。
 このころには、毎週、交代で千町に来てくれる村外会員との交流が、単に農作業の共同体としてではなく、一緒になって汗をかく、夢を語れる、大切な友人として向き合えるようになっていました。
 12月には、夏に続き2回目の収穫祭、みんなで育てたソバの収穫で舌鼓。畑では、もうすぐ来る長く厳しい冬の到来に備えて冬支度。
 1年目は、計画を上回る収穫がありました。3月の総会では、来年の活動目標として、新たに50アールの休耕田を再生し、生産量を4倍に増やすことにしました。
 事業を本格化し、農業のプロ集団を目指す。加工食品の生産を軌道に乗せる。阪神間の販売拠点を5~6箇所に増やす。ことなども確認しました。
 また、千町での農作業は、神戸から車で片道約3時間かかるため、1泊2日の作業が基本となっています。耕作地の近くに宿泊施設を建設することが大きな課題となっていましたが、県や市の補助を受けながら、村外会員の皆さんが、泊まりこみで作業ができるように、上千町公民館の敷地内に新たに宿泊棟も建設しました。この新しい施設を活用して、どんどん活動の輪が広がっていくことを期待しています。
 念願の宿泊施設が完成した訳ですが、私たちにとって、建設資金の一部を負担することは大変な決断でした。しかし、この1年間、あこがれ千町の会の活動を通じて、都市住民と交わした交流が、この人たちとなら、きっとやっていける。お互いの立場を理解し、協働による新しい村づくりができる。今、始めなければ次はない。そんな思いが、今のあこがれ千町の会の活動へとつながっています。
 ここに、朝日新聞に投稿された交流会参加者の投稿文章があります。
「今年は、心に残る体験をした。高齢化の進む兵庫県宍粟市の集落・千町で、市外のNPO法人が休耕田を借りて作物を育てる取り組みに参加した。集落は山々に囲まれ、人口は50人程度。田畑の再生を通じての地元の人との触れ合いがだいご味だ。知人に誘われて月1回ほど参加した会の名は「あこがれ千町の会」という。7月の暑さの中、集落の人たちとカボチャやトウモロコシ畑の草を取った。長時間の作業だったが、地元のおばあちゃんは、「今日は、ほんまにええ日やった」。なぜ?と聞くと、「あんたと一緒に草取りができたから」。農作業の後、水路で長靴の泥を落とすと、足までひんやりとして気持ちよかった。自宅の神戸から車で片道3時間。少し長い道のりだが、自然の懐に抱かれ、集落の人たちと触れ合うと私の心はどんどんほぐれていく。過疎地はマイナスに捉えられがち。でも、集落があこがれの地になるよう、活動を続けたい」
 私たちとの交流会に参加して、こんな感想を寄せてくれる都市住民がいます。
 千町で生まれ育った私たちにとっては、ごく普通の当たり前の風景でも、こんな言葉をいただく度に、改めて、千町の持つ地域資源の可能性について考えさせられます。
 近年、広域基幹林道の整備が進む建設地で、岩塊流という珍しい自然遺産があることがわかりました。今から約260万年前、氷河期の時代に創られたものだそうです。岩塊流の下には、冷たい水が流れていて、冷たい水で冷やされた岩の上にはコケが生え、コケむした岩の上で芽を出した草木が、水を求めて下へ下へと根を伸ばし、何年もの歳月をかけて幻想的な森が広がっています。
 今、私たちは、1000メートル級の山々や、清流、岩塊流などの地域資源を今後どう活かしていくか。検討を重ねています。
 国内では、東北地方の震災を経験して、原発事故を契機として、食の安全、健康に関する関心が高まっています。
 私たちは、千町で収穫した有機野菜が、一つのブランドとして定着し、いつか、荒れ果てた農地を再生し、賑やかだったころの風景が甦る。そんな将来を夢見て、都会の会員と一緒になって、協働して創造する村づくり「あこがれ千町」の実現をめざしてこれからも取り組でいきます。