「あしたのまち・くらしづくり2011」掲載
あしたのまち・くらしづくり活動賞 内閣官房長官賞

雲州平田の再生は歴史と文化と人の心から―木綿街道の明日をめざして―
島根県出雲市 木綿街道振興会
 島根県出雲市平田町は「雲州平田」と呼ばれ、出雲大社と松江をつなぐ中間地点に位置しており、西暦1300年代に近江商人らによって開拓がなされ、商人の町として長く栄えた町である。
 戦国時代にはすでに「町割り」と呼ばれる都市計画が行なわれ、現在の平田の町の原型が出来、江戸時代には宍道湖と平田船川運河の水上交通を利用した物資の集散地として、島根県では県都松江に続く大きな町として繁栄した。当時松江藩では綿花の栽培と品質向上をすすめており、出雲平野で栽培され雲州平田を集散地とする木綿製品は大阪で「雲州平田木綿」と呼ばれてその品質の良さを評価され取引を増やし、雲州平田は木綿関連の商人を中心とした文化の全盛時代を迎えた。
 明治時代になると木綿から生糸に転換し製糸業が発達し、明治末期には生糸の町として県下第一の工業都市として栄えた。しかし、その後は海外からの繊維製品に追われ、製糸業は縮小していった。交通の面においても水上交通が廃れ鉄道へ、さらに道路交通へと変化し、郊外型の大型店の台頭により商店街も衰退の一途をたどっていった。
 現在の雲州平田は県都松江に次ぐ都市であった面影はなく、高度成長期には人で溢れ賑わった商店街は疲弊し空き店舗が目立ち、平成17年の出雲市との合併により平田市の中心市街地という役割までも失い、活気溢れる商業都市「雲州平田」の住民としての誇りやアイデンティティーも遠い昔のことになり、雲州平田に繁栄の歴史があったことなど知らない世代が増えてきつつある静かな町である。

 雲州平田の中心地を流れる平田船川運河沿いに「木綿街道」はある。
 この道は古くは「松江杵築往還」と呼ばれ、松江から出雲大社への参詣道として賑わった古道の一部であるが、高度成長期における平田地域の開発から取り残されたことにより、江戸中期の佇まいや文化を今に残すこととなった貴重な地域である。
 街道の各所に残る切妻妻入り塗り壁造りの民家は雲州平田特有の建築様式であり、通りと船川をつなぐ小路・かけ出し(船着場)とともに木綿街道の歴史的景観を形成している。
 平成20年には木綿街道まちづくり協定が締結され、修景事業、ファサード部分の改修の助成などが行なわれ町並みの整備が進みつつあるが、反面、空き家となり日常的な管理が難しくなっている建物も多く、所有者の管理の都合上、老朽化した空き家の取り壊しが行なわれるなど景観の連続性を失っていく部分もある。空き家ばかりでなく住民が暮らす民家も老朽化し改修が必要になっている建物も多いが、費用面や建築関係法令等の縛りの中で歴史的な町並みを残していくのが非常に困難な現状があり、町並み保存に関する早急な対応が必要になってきている。

 「木綿街道」という名称は、平成13年に第1回を開催したイベントの名称から派生し、現在はこの地域の愛称として定着している。木綿街道の起こりとなったこのイベント「おちらと木綿街道」は木綿によって繁栄したこの地域に残る歴史的景観と文化を多くの人に知っていただくために継続開催しており、今年で11回目を迎えることが出来た。ここまでこのイベントを続け、また木綿街道のまちづくりを長年続けてきた過程には様々な苦悩や挫折がありそれらを乗り越えて今日を迎えることが出来ている。
 当会は昨年6月までは「木綿街道商業振興会」という名称で木綿街道内の商業者の団体として活動を続けてきた経緯がある。
 会の名称からは商店会活動団体というイメージが強いが、実際はそうではなく雲州平田の抱えている課題を打破していきたいとの思いから、
○木綿街道の町並み景観・歴史・文化等の資源を活用し雲州平田地域の活性化を図ること
○歴史的な町並みを保存し後世に受け継ぐこと
 この2つを目的として、現在の半分の約10名の会員で様々な活動を継続してきた。
 その中での苦悩の原点は、木綿街道の住民である私たちと街道外の皆さんとの木綿街道への思いや関わり方の違い、また街道内の商業者である私たちと街道内の一般住民の皆さんとの温度差、そして慢性的な人員不足などであったと感じている。
 「街道外の皆さんとの木綿街道への思いや関わり方の違い」とは、木綿街道を地域の宝として地域住民みんなで守っていきたいと考える私たちと、木綿街道のことは木綿街道の住民でという街道外の考えとのギャップ、木綿街道を生活の場とし活動している私たちと木綿街道を自分自身の楽しみの場と捉え活動する街道外の団体とのギャップ、そしてそこに暮らす私たちは楽しかろうが楽しくなかろうが木綿街道との関わりから身を引くことが出来ないのに対して、外から来た人は楽しくなければいとも容易く関わりを絶つことが出来るというスタンスの違いである。
 また「街道内の一般の住民の皆さんとの温度差」とは、自分たちが暮らす町並みの歴史的価値についての理解の度合いの差や、古い町並み景観を目的に観光客が訪れることが商業者でない一般の住民の直接的な利益にはつながらないということから生じたものではなかっただろうか。
 しかし、この10年余りの絶え間ない地道な活動を通して、それら苦悩の原点であったものが少しずつ形を変え、理解が深まり、木綿街道を地域全体で守る宝として、住んでいる者も暮らし良く外から来た人も心癒される場所に、また街道内の一般の住民の方々も直接的な利益はなくてもその中に暮らすことに誇りを感じる場所に少しずつ近づいてきているのではないかと感じている。
 私たちの活動に対して深い理解を寄せていただく方々も徐々に増え、街道外の皆さんにも会員になってもらいやすくするために昨年「木綿街道商業振興会」から「木綿街道振興会」へと名称変更した。それにより活動に協力いただく会員も20名ほどになり、賛助会員やボランティア会員の皆さんの協力もいただけるようになった。

 そして昨年度、私たちが全力で取り組み、多くの人々が木綿街道の明日について考え、結果としてこれからの木綿街道の方向性を定めることができた大切な事業である「旧石橋酒造の継続的な活用のための清掃活動と活用実験」を住まい・まちづくり担い手事業の助成により実施することができた。
 この事業は平成19年の廃業により空き家になり廃墟化しつつあった「旧石橋酒造」の建物の現状を知り活用の可能性を見出すこと、実際にいくつかの活用実験を行なうために会場となる部分の清掃活動を行なうこと、地域住民参加の活用実験を行なうことで問題点を探ると同時に、住民の関心を喚起し活用案を探るワークショップへとつなげ、住民自身が考える「現時点での実行性が高い活用提案」を出雲市に対して提言することを目的として実施した。
 旧石橋酒造ほどの規模(築後推定220年、約800坪)の行政所有の古民家を住民団体主導で活用していくことは難しいとも考えられる。しかし実際にこの活動を実施し、行政主導では早急には成し得なかったと思われる事項が住民主導で行なったことで実現し、環境の改善が加速したことに確かな手応えを感じている。このように価値ある古民家を住民団体が主体となり行政と協働しつつ、出来るだけ低コストで維持活用していく試みは、歴史的意義のある地域での地域資産である古民家の保全と活用手法のモデルケースともなりうるものであると考え活動を続けている。

 当会が活動開始から現在まで、こうして徐々にでも活動を拡大して来られたのは様々な方々の協力があったからに他ならない。人との関わりの中から苦悩や挫折が生まれたが、同時に人との関わりの中から発展も生まれることを経験の中から感じている。
 特に建築系の大学関係者との関わりが出来てきたことは私たちにとって大変意味深くかつ刺激的であり、近年の活動が加速化してきた要素の一つでもある。City Switchプロジェクトとの関わりは、木綿街道の将来像を描くうえでの客観的な視点を持った良き相談者としての存在感が大きくなっている。鳥取環境大学浅川研究室との関わりは、重要伝統的建造物群保存地区選定に向けての第一歩を踏み出すことにつながっている。
 私たちは幸運にもその時々に行政や有能な専門家の適切な援助を受け活動を推進することができたが、活動の主体となり方向性を定めてきたのはいつでも私たち自身であった。行政や専門家に依存するのではなく、協働を進めつつ自分たちの当初の目的に向けてぶれることなく必要な活動を進めてきたからこそ今があると思っている。
 今後はこれまで継続してきた諸活動に加え、次の3点を柱として活動を展開していきたいと考えている。
@木綿街道全体の価値を高め来訪者を増やすための活動
・重伝建地区選定や文化財登録のための調査の実施
・町並み、川並みの景観の整備
・マップやパンフレットの充実 など
A木綿街道の活動を地域住民にさらに深く理解していただくための活動
・住民を対象とした重伝建地区選定に関するシンポジウムの開催
・木綿街道振興会の活動を広く理解していただくための活動報告会
・ホームぺージ上での活動紹介の充実 など
B旧石橋酒造における活用提案の実現と前進に向けての行動
・清掃活動の継続
・活用団体の募集と活用サポート
・行政との協働体制の充実 など

 私たちの活動は開始から10年余りが経過しているがまだまだ先は長いと思っている。
 棉の種を蒔き、成長し花が咲き、実を結び、それがはじけて綿が収穫できる。そしてその綿の中にいくつかの新たな種がある。まちづくりとはそのような地道なサイクルにより長く続けられて行くべきものではないだろうか。
 私たちの当面の目標は50年後。木綿街道が今と同じ佇まいで残り、今よりは暮らす人も訪れる人も増え、木綿街道の町並みを愛する誰かによって私たちの活動が引き継がれていること。そして今と同じようにみんなの笑顔の絶えない場所であること。50年後の木綿街道がそんな場所であるために私たちはこれからも活動を続けていく。