「あしたのまち・くらしづくり2006」掲載
<まち・くらしづくり活動部門>あしたのまち・くらしづくり活動賞 内閣官房長官賞

足もとの地域から世界を見る―授業づくりから地域づくりへ―
千葉県館山市 特定非営利活動法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム
(現在、特定非営利活動法人安房文化遺産フォーラムに改称)
はじめに

 私たちの活動の原点は、地域に残る戦国大名里見氏の城跡や戦争遺跡(以下、戦跡)などの歴史・文化遺産を活用した学校教育の授業実践と、市民による保存運動にある。これらの調査研究やガイド活動を中心に、南房総・安房の自然や歴史・文化を活用した生涯学習による地域づくりを目的として、2004年にNPO法人を設立した。
 この活動は、地域に生きる誇りや喜びを蘇らせてくれたばかりではなく、この地を訪れる人びとにも波及し、新たな交流文化によるコミュニティ・ネットワークが広がりつつある。


房総里見氏の歴史・文化を継承する

 曲亭馬琴の描いた戯作『南総里見八犬伝』は全国的に有名であるが、そのモデルとなった実在の戦国大名里見氏が170年にわたって南房総・安房の地を治めていたことはあまり知られていない。
 1996年、里見氏の居城であった稲村城跡(館山市稲)は、公共道路計画により壊される寸前となった。『八犬伝』の舞台としても登場する稲村城跡は、その遺構の状態がよく、文化遺産としても価値が高い。私たち市民は、保存と国指定史跡化を目ざして「里見氏稲村城跡を保存する会」を結成し、署名運動や議会への働きかけをおこなった。
 その一方で地域住民への啓蒙活動として、里見氏研究のシンポジウムや講演会、ガイド解説つきの文化財ポイントラリー、里見氏の城郭を結んだ歴史の道を歩くウォーキングなどに取り組んできた。継続した活動の参加者は延べ1万人にのぼり、地域の文化遺産を守ろうという誇りを市民に蘇らせていった。
 10年にわたる地道な保存運動が実って道路計画は中止となり、市民の悲願であった国指定史跡に向けての取り組みも市当局から表明された。稲村城跡は、地域のシンボル的な文化遺産として、市民によってまもられたのである。


戦争遺跡を平和学習の教材に活かす

 古代より政治や軍事、交易において極めて重要な戦略的な拠点とされてきた館山は、先の大戦においては東京湾要塞として軍備強化された地である。飛行技術の開発や訓練地としても重要な役割を担い、戦争末期には本土決戦に備えて約7万人の兵士が投入され、花き栽培農家は花作りが禁止されるなど、戦時下の住民は厳しい監視下に置かれた。
 終戦直後の館山には米占領軍3500名が上陸し、本土で唯一「4日間」ではあるが直接軍政が敷かれた。しかし、戦後の長きにわたってこのことは誰にも語り継がれることなく、地域では忘れ去られた歴史として埋もれてきた。
 1989年、戦跡に光を当て調査研究を始めたのは、高校の世界史教師であった当NPO代表である。戦跡を教材とした授業の実践は、歴史教育者協議会を通じて全国に報告され、高く評価された。その一方で、公民館の郷土史講座などで戦跡フィールドワークを実施し、その後熱心な市民らによって「戦跡調査保存サークル」が結成された。メディアの報道も追い風となって、全国から平和研修の団体が訪れるようになり、市民有志らのガイドによる戦跡見学者は10年で約6000名にのぼった。
 この実績により、2004年には館山海軍航空隊「赤山地下壕」が平和学習の拠点として、自治体によって整備・一般公開された。同年夏に開催した「第8回戦争遺跡保存全国シンポジウム館山大会」が弾みとなり、「赤山地下壕」は年間約1万5000名の入壕者を迎え、翌年には市の指定文化財となった。とくに子どもたちの体験学習では、効果的な役割を果たしている。
 また戦時中、青く美しい光を発する小さなウミホタルを軍事研究に利用する目的で、地域の子どもたちは採取を命じられていた。このエピソードを掘り起こし、語り継ぐ活動のなかから、合唱組曲『ウミホタル~コスモブルーは平和の色』が誕生した。「戦後60年」という節目に、市民160名による初演が行なわれた。館山発祥の平和の音楽は、日韓交流・日米交流でも演奏され、広く国内外に歌われはじめている。


「平和・交流・共生」の精神を学ぶ

 日本地図を逆さに見てみると、館山は太平洋に突き出た日本列島の頂点にあたることがわかる。海路の拠点であった館山は、古代から繰り返し支配権力に狙われたばかりでなく、海洋民の共生地として多様な文化が育まれてきた地でもあった。
 国際交流の痕跡は、館山市大網の大厳院にある「四面石塔」(千葉県指定文化財)に見ることができる。1624年に建立されたこの石塔には、東西南北の各面に和風漢字・中国篆字・朝鮮ハングル・インド梵字で「南無阿弥陀仏」と刻まれている。秀吉の朝鮮侵略や家康の朝鮮通信使修交という時代背景のなか、建立の年が壬辰倭乱(文禄の役)から33回忌にあたることから、戦没者の供養や平和祈願の思いがこめられているのではないか、と推察される。
 この授業実践の報告は、日韓双方の歴史教育者たちから注目され、2002年の「日韓国民交流年」には日韓共同研究シンポジウムが館山で開催された。
 2005年の「日韓友情年」には「たてやま日韓子ども交流」を開催し、「四面石塔」や戦跡などを学習する歴史交流のほか、音楽や茶道などの文化体験交流、無人島探検の自然体験交流を行なった。両国の子どもたちは、「昔の人びとが、戦争を乗り越えて仲のいい国同士にしたいと願ったことを学んだ。ぼくたちもそういう国同士にしたい」という感想を述べている。
 歴史認識問題において緊張関係にあるアジア諸国から多くの人びとを館山に招き、この石塔の前で先人たちが願った「平和・交流・共生」の精神に思いを馳せ、真の国際親善と友情を育みたいと望んでやまない。


安房南高校生徒会のウガンダ支援活動

 このような地域教材を活用した平和・人権学習のなかで、千葉県立安房南高校の女生徒たちは、今なお多くの子どもや女性たちが戦禍に苦しんでいる世界の現状に心を痛め、自分たちにできることを模索しはじめた。
 1994年、同高生徒会では、内戦やエイズの蔓延で孤児の多いアフリカのウガンダを支援するためのバザーを開催した。その後も12年にわたり、バザー収益による援助金10数万円のほか、使わなくなった文具や衣料、足踏みミシンなどを送り、支援活動をすすめてきた。若者から生まれた国際協力は実を結び、ウガンダに小さな職業訓練校が誕生した。名前を「AWA―MINAMI(安房南)洋裁学校」という。これは、地域の誇りであり、日本の誇りであるといえるだろう。
 ところが館山の安房南高校は、統廃合によりあと2年で姿を消すこととなった。高校生が地域から世界に目を向けてはじまった草の根国際協力の火種を消すことのないよう、地域社会が一丸となって支援を続けていきたいと切に願っている。


青木繁『海の幸』の記念碑をまもる

 明治の鬼才と呼ばれる青木繁が、後に国の重要文化財となった『海の幸』を館山で描いたのは、1904年である。無名の貧乏画学生4名を快く滞在させ、この絵の誕生を支えたのは、布良という小さな漁村の漁師たちであった。布良(めら)は、マグロ延縄漁の発祥の地でもあり、かつては全国に名を轟かせていた漁業基地である。
 青木の没後50年を期し、布良に『海の幸』記念碑が建立されることになった。当時の館山市長とともに、青木の盟友であった坂本繁次郎画伯や日展初代理事長の辻永画伯、青木を世に紹介した美術評論家の河北倫明氏など驚くべき著名人が発起人に名を連ね、資金調達に奔走している。まだ重文指定になる以前ではあったが、石橋財団からも記念碑建立の助成金を受け、1962年に記念碑は建立された。記念碑は、隣接して建てられたユースホステルを設計した生田勉東大教授によって、美術振興の道標として設計されているが、当時生田氏は海外の現代建築を翻訳し日本に紹介していた第一人者であった。
 1996年、館山ユースホステルが廃業し解体されることになった際に、記念碑が建立されている土地が国有地であり、記念碑を壊して現状の復帰が求められたという。しかし、かつて青木が逗留した小谷家当主をはじめとする地域住民らの陳情によって、記念碑の破壊は免れた。
 現在、漁業の衰退に伴って、布良は急速な過疎化に見舞われ保育園が廃園となった。少子高齢化のすすんだ地域を案じた連合区長会長ら古老から地域活性化の相談があり、当NPOでは地域の文化遺産をまもり活かす地域づくりとして協働事業を計画した。
 2005年秋、東京のブリヂストン美術館では特集展示「青木繁『海の幸』100年」が開催された。それを受けて私たちは、同年12月、「“青木繁『海の幸』100年”から布良・相浜を見つめる集い」を開催した。午前は布良地区のフィールドワークをおこない、青木ゆかりの地や漁業にまつわる記念碑や神社仏閣などをめぐった。午後は、東京文化財研究所の研究員による講演と、地元小学生による調べ学習の発表、地元関係者らによる座談会を行なった。とくに小谷家当主からは「青木が逗留した築100年になる自宅と記念碑を保存していきたい」という声明が発表され、今後、文化財指定を目ざして正式に保存会が組織されることとなった。また、「おじいちゃんと孫が地域を案内できるように、ガイド講習会をやりたい」という希望も生まれた。


市民が主役の地域づくり

 現在、当NPOでは年間約150団体のスタディツアーを迎え、延べ5000人近い来訪者に対して講演やガイド活動を提供している。その中心を担うのは、定年後の生きがいを見出したシニア層である。彼らを生涯現役で創造し続ける世代と位置づけて、高齢者や老人という呼称の代わりに「創年」と定義し、当地を訪れる人びととともに、学び知ることの喜びを分かち合う世代間交流を推進している。新たな交流文化の醸成が、地域に対する誇りや愛着を育み、少子高齢化社会のなかで豊かなコミュニティを創造し、雇用創出の一助になればと願っている。